郷土の三英傑に学ぶ


◆破章◆ なぜ信長が歴史に現れたのか?

- 経済重視政策は親譲り -

ieyasu
織田家は尾張守護である斯波氏の家臣のさらにまた家臣という家柄でした。

信長の祖父となる織田信定が勝幡城を築き、津島を掌握したのが織田家発展のきっかけとなります。

津島地方は木曽川の支流佐屋川と天王川の合流点で、尾張、美濃、伊勢を結ぶ海上・河川交通の要所でした。商業・流通の拠点であった湊町津島を掌握し、交易などから一定額を矢銭(軍資金)として納めさせることにより経済力をつけ発展の基盤を作りました。

信定の子、つまり信長の父である信秀が狙ったのが津島の東にある萱津です。萱津は甚目寺の門前市で、定期的に市がたっていました。陸上交通の拠点でもあり諸国の情報が集まる拠点です。

この甚目寺を支配していた豪族が土田氏で、この土田氏の娘が信秀の妻となり、信長を生んでいます。これによって信定、信秀と2代にわたり湊と市を支配し、経済力をたくわえます。

小さい頃から近くで見ていた信長は流通と情報が要(かなめ)ということを肌で感じ学びました。つまり市場経済というDNAが自然とすりこまれていくわけです。

後に足利義昭を上洛させ15代将軍につけた時、将軍からほうびに知行(領地)はいらぬかと言われた時、信長は知行よりも堺・大津・草津に代官をおきたいと言った話があります。その重要性がよく分かっていたんですね。

尾張を統一した信長は生駒氏の財力、情報力に目をつけ、よく訪れていました。生駒氏は染め物の原料の灰や油を商い馬借業で財を蓄えていた家で、諸国から色々な人物が出入りし、その中には木曽川流域を根城とした蜂須賀小六や前野将右衛門等なども混じっていました。

さて信長の前に吉乃が登場します。彼女は土田氏に嫁ぎましたが、夫が明智合戦で戦死し、兄の住む生駒屋敷に帰ってきました。

そこで吉乃が信長に見初められて室となり、嫡男信忠、二男信雄、長女徳姫を産みます。

実は、木下藤吉郎も生駒屋敷に寄宿し蜂須賀小六の家来になっていたそうで、この吉乃の取りなしで信長に仕えることになったという説があります。

生駒屋敷には諸国の情報が集まり、当時は作戦司令室の様相で、信長は蜂須賀小六や前野将右衛門等から情報を集め、桶狭間奇襲や美濃攻めなどの構想をめぐらしていたそうです。

さて吉乃ですが美濃攻めの拠点となった小牧山城に信長が移り、御台の部屋を作って迎え入れましたが29歳で死んでしまいました。

小牧山城の櫓から信長が吉乃の墓所を眺めて涙を流していたという意外な一面を伝える記事が菩提寺である久昌寺縁起に残っています。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

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