郷土の三英傑に学ぶ


◆第3章◆ 郷土の三英傑に学ぶマーケティング

- 信長の流通革命 -

ieyasu
美濃を平定後、岐阜と改名した信長は次に現在の柳ヶ瀬商店街近くにある円徳寺前に楽市・楽座の高札を立てました。室町時代は生産が飛躍的に伸びた時代でもありました。潅漑・排水の技術が改良され、二毛作が各地に広まりました。また商業の発達により、手工業の同業組合である「座」が組織化され、対外交渉力の強化等、経営基盤が強化されました。
これにともない遠隔地との取引が活発となり、交通の要地では馬借と呼ばれる運送業者が登場しました。

ところが商工業が発達すると、それに目をつけた幕府・公家・寺社は収入を増やすために数多く関所を設置するようになりました。

淀川では一時期、関所数が380を超えたことがあります。また伊勢街道の桑名・日永(ひなが:四日市市)の間、わずか15キロの間に60余の関所がありました。それぞれの関所で多種多様な関銭が課されることになります。輸送業者、商人に深刻な影響を与えていました。

室町末期には既得権の弊害が目立ち始めます。市(マーケット)はその地域を統括する寺院が運営しましたが、商人が出店する場合は営業権を取得し、納入金を払う必要がありました。また座は生産、販売の独占権を持ち、加入する場合は株(会員権)が必要でした。

この参入障壁を撤廃したのが信長です。楽市・楽座として誰でも商売ができるようにし、自由競争としました。ただ領土全体でやったわけではなく、都市育成政策の一部でした。最初は岐阜で行い、基本的には規制緩和で、今で言う特区のようなものでした。
これで既得権のある商人ではなく才覚があるもの、工夫するものが伸びることとなり、近江商人等が登場していく土台になっていきます。

信長は関所廃止政策を推進、また領内の主要道路を三間幅にし、これにより輸送コストと輸送時間を下げました。これで流通ルート(チャネル)が整備され、都市へ商品が円滑に流れ、商品取引の拡大を促しました。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、岐阜のにぎわいを「バビロンの如し」と書簡にしたためています。彼の記述によれば、当時の「岐阜」の人口は、約1万人で活気あふれた街だったそうです。
信長は領内の安全の確保を行い、様々な特典を商人に与えることによって都市を発展させ、これを商業の発展につなげました。最終的には信長の財力がアップし、「天下布武」を実行していく上での原資となりました。

水谷哲也
※三英傑のイラストは、原田弘和様にご提供いただきました。無断で転載することは禁止されております。

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