■古河掛水倶楽部・役宅
明治10年(1877年)に廃山同様になっていた足尾銅山を古河市兵衛が経営するようになり、日本の鉱山としては最先端の技術を取り入れ、日本の産銅の約半分を生産するに至り、東洋一の銅山と呼ばれるようになりました。
古河掛水倶楽部は鉱山都市・足尾の迎賓館として、明治32年に建てられた洋館です。華族や政府高官を招いた際の接待や宿舎などに使用されました。現在も古河機械金属(株)様の福利厚生施設として活躍しています。
掛水重役役宅は、所長、副所長、課長などの役宅として建設されました。鉱山住宅群が敷地を含め、ほぼ創建時の状態で現存しているのは全国的に極めて珍しいとされています。
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掛水倶楽部
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■松木たい積場
明治45年3月に設置され、昭和35年10月まで使用され現在は休止中です。面積は208,000 ㎡、たい積容量は16,779,600 ㎥です。たい積場とは鉱山から生ずる捨石、鉱さいその他の鉱業廃棄物を処理する施設です。
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松木たい積場
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■足尾製錬所
古河市兵衛が明治10年足尾銅山を買収し、相次ぐ富鉱の発見に伴い、製錬処理量の増大に対応するために、開設されました。
生産量は日本一の銅山となりましたが、同時に亜硫酸ガスによる煙害も発生しました。
そのため煙害克服のための技術改良が続けられ、昭和29年にフィンランドのオートクンプ社より日本で初めて自熔製錬法を導入し、その後独自の改良を加え、古河オートクンプ式自熔製錬法を確立しました。
亜硫酸ガスの完全回収に成功し、国内外から高い評価を受け、各社に導入されました。昭和48年足尾銅山閉山後も操業を続け、昭和63年に130年にわたる銅製錬所の役割を終え、事実上の操業を停止しました。
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足尾製錬所
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■中才浄水場
明治30年政府の鉱毒予防工事命令により建設された浄水場です。それ以降、坑内廃水は全て中和、沈殿して放水することが義務づけられ通洞坑の廃水は中才浄水場で処理されました。当時の施設を改良し、今も浄水処理が行われています。
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中才浄水場
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■足尾銅山観光
足尾銅山は1610年に開さくされ、江戸幕府の御用銅山を経て、今日まで約400年の歴史を持つ鉱山で、平成20年には通洞坑は国の指定史跡となりました。
足尾銅山の坑内の総坑道長は1,234km で東京~博多間の距離に相当、坑内内部は多層構造で上下約1,100m の立坑となっています。
開さくには蒸気タービンにおる圧縮空気を動力とした、さく岩機やダイナマイトによる発破工法など当時の最新技術が導入されました。
これは、積極的な技術革新を進めた古河鉱業(現古河機械金属(株)様)の姿勢を現していると言えるでしょう。
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足尾銅山観光
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