橋イラスト

大阪の隠れ名所「毛馬閘門(けまこうもん)」。初めて聞く人は耳を疑うかもしれない。恥ずかしながら私も最初は馬のお尻の穴を想像してしまった! でも、閘門という字をよく見てほしい。こちらは水位差のある水面間で船を就航させるための水門装置。毛馬は地名で、淀川と大川(旧淀川)とが合流する地点に造られた閘門だ。パナマ運河と同じ構造をしていることから最近では「なにわのパナマ運河」とも称されている。
この毛馬閘門から大川を南へ少し下ったところに架かるのが、今回ご紹介する「毛馬橋」。毛馬の地名は、かつてこの地が葦の生い茂る淀川河口の一つで草木を一般に「毛」と呼んだことから「毛志馬(けじま=毛島)」と名付けられ、縮まって「毛馬」になったといわれる。

毛馬橋が架けられたのは大正3年(1914)と比較的新しい。それまでは橋に代わって渡し(舟)が活躍した。旧淀川の大川には「毛馬渡し」のほか南に「源八渡し」と「川崎渡し」があったが、最上流の毛馬渡しは、人々が大坂の北部から京方面へ行く際に必ず利用するルートとして最も賑わった。また、この辺りは旧淀川の本流だったことから、往来する三十石船の客相手に酒や食べ物を商う「くらわんか船」も盛んに行き交った。

毛馬は与謝蕪村(よさぶそん)の出身地としても知られる。
江戸時代中期の俳人で画家でもある蕪村は、享保元年(1716)、渡し近くの摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれた。父は毛馬村の庄屋、母は丹波国与謝からやってきた奉公人の女性だった。蕪村は正式嫡子ではなかったが、父の谷口姓を名乗り、後継ぎとして父の元で育てられた。13歳で母を亡くし17、18歳の頃、毛馬を出て江戸に下ったといわれる。
江戸では松尾芭蕉の孫弟子、早野巴人に師事し俳諧を学んだ。蕪村はその後、東北地方や丹後、讃岐などを回り40歳を過ぎて京に居を構えた。 そこで結婚して所帯を持ち68歳で亡くなるまで京で過ごした。晩年、売れっ子の俳人として門人を引き連れ大坂を再々訪れたが、郷里の毛馬には二度と帰ることはなかったといわれる。

蕪村が62歳の時の作品『春風馬堤曲(はるかぜばていきょく)』には、のどかな毛馬の風景が詠まれている。曲といっても楽曲ではない。俳句、漢詩、和詩を交えた18首をちりばめた抒情詩だ。蕪村は後に伏見に住む門人に宛てた手紙の中で「馬堤は毛馬堤也 即ち余が故園なり」と、作品の舞台が故郷の毛馬村であることを告げている。
主人公は母と弟を残して大坂に奉公に出て3年ぶりに帰郷する少女。堤で懐かしい茶店のおばあさんに会ったり、春草を摘んだりしながら家路に向かううちに、母の恩に気づき、田舎を忘れて都会暮らしにどっぷり浸っている自分を反省する。そして黄昏の中に弟を抱いて自分を待っている老母を見つける。
蕪村は少女に一人娘「くの」の姿を重ねたとされるが、摘み取ったタンポポの乳汁に慈母を想い、無沙汰を悔いるなど作品には自身の望郷の念が込められている。

閑話休題。毛馬橋の話に戻ろう。
大正時代の木橋を経て、いま大川に架かるこの橋は長さ150m。昭和36年(1961 )に当時の最新技術で設計施工された桁橋だ。幅8mだったが、中津赤川線の道路でもあるこの橋は昭和54年(1979)に幅25mに拡幅された。橋をまたいで大川の東岸に広がる「蕪村公園」には13首の蕪村の句碑がある。さらにここから5分ほど北に進むと毛馬閘門の東側の堤に「蕪村生誕地」の碑と句碑が設けられている。句碑には『春風馬堤曲』18首の2首目「春風や 堤長うして 家遠し」の句が蕪村の自筆を拡大して刻まれている。

実は、私も結婚して1年半ほどを大川沿いの毛馬で暮らした。もう30年近くも前のことだ。まちが春色に染まれば毛馬の土手を訪れ、初々しかったあの頃に想いを馳せて一句ひねってみよう。

毛馬橋
大江橋
大川の最上流にある毛馬橋
大江橋
親柱には馬の鞍のデザインが
大江橋
「蕪村生誕地」の碑と蕪村自筆の
句碑「春風や堤長うして家遠し」
(写真撮影=池永美佐子・
村上航)


毛馬橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、2015年、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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