橋イラスト

大川をまたいで大阪市北区天満と東区京橋をつないで大阪に架かる天満橋。上にも車道があるユニークな橋は、昭和10年(1935)に架け替えられたもので、長さ151m、幅員22m。通行量の増加に伴い、昭和45年(1970)にこの橋の上に重ねる形式で高架橋が建設された。高架橋は全橋長410m、幅員14m。当初、橋を拡幅する計画だったが、近くに地下鉄や京阪電車の軌道や地下連結道があって幅を広げることが難しく、当時の最先端の技術を投入して重ね橋が誕生した。

起源は豊臣秀吉が大坂城下建設の一環として架橋されたといわれるが、年代は定かではない。江戸時代には天満橋のほか、西にある天神橋、難波橋とともに幕府が管理する公儀橋となり「浪華(なにわ)の三大橋」と呼ばれた。
水上交通の道として栄えた大川では、多い時には1日に300隻もの船が行き交い、天満橋の南詰には淀川を遡って京に向かう三十石船の船着場となる「八軒家浜」があった。三十石船は旅客専用の船で米を三十石積めるほど大きな船だった。

ところでこの「浪華」。「なにわ」の当て字として前々号の「雑喉場(ざこば)橋」の中で「魚庭」を紹介したが、もう一つ「菜庭」という字がある。菜は野菜。「天下の台所」大坂は、魚だけでなく野菜や果物の一大集積地でもあった。中でもこの天満橋界隈は水路を利用して近畿一円から青果物が集まり、承応2年(1653)には幕府公認、日本でも有数の「天満菜菰(あおもの=青物)市」が、八軒家浜の対岸に開かれた。ちなみに菜菰の「菰(まこも)」はイネ科の多年生水草で種子は菰米と呼ばれて食用にされたらしい。商われた青物は再び船に乗せられて大川を下り西横堀へと運河を巡った。

いつの頃からか、この地で口ずさまれた「天満の子守唄」という歌がある。
♪ ねんねころいち 天満の市で 大根そろえて 舟に積む
舟に積んだら どこまでゆきゃる 木津や難波の 橋の下・・・

秋の夜には栗市や松茸市、冬には「蜜柑(みかん)大市」が開かれた。その様子は江戸時代に出版された『浪華の賑ひ』や当時の観光案内書『摂津名所図会』に描かれている。
このかるたの絵も摂津名所図会から写したもので蜜柑大市の情景。後ろに天満橋が見える。紀州から船で運ばれたミカンが八軒家浜に着き、市場はミカン一色だ。蜜柑大市は陰暦10月の上旬から師走の24日まで開かれ、菜菰天満市の中でも最も賑わった。
天満にあったミカン問屋を舞台にした「千両みかん」という落語がある。同じく青物市場があった神田多町(東京)を舞台にして江戸落語の演目に上がることが多いが、もとは上方落語。桂枝雀や桂米朝が好んで演じた。

天満菜菰市(青物市)はその後、明治・大正の頃も栄えたが、昭和6年(1931)に雑喉場魚市と統合されて福島区に移り「大阪市中央卸売市場」になった。
いま、天満橋駅から天満橋を渡って西側の川岸に広がる南天満公園の一角に「天満青物市場跡」の石碑がひっそりと建っている。また、この碑からすぐ近くに「淀川三十石船舟唄碑」と、赤子を背負った少女像と「天満の子守唄」の碑もある。子守は大正の中頃まで、農家や商家に奉公に出された少女たちの仕事だった。
車がひっきりなしに行き交う巨大橋の背景にある知られざる歴史。石碑の前に立って瞼を閉じると、かつての賑わいと天下の台所を支えた名もなき人々の営みが見えるようだ。

天満橋
天満橋
天満橋
天満橋
「天満青物市場跡」の碑
天満橋
「天満の子守唄」の碑
天満橋
「淀川三十石船舟唄碑」
写真撮影=池永美佐子


天満橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、2015年、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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