橋イラスト

大阪の夏祭は「愛染さんに始まり、天神さんで中をとり、住吉さんで締める」といわれる。今回は住吉祭にゆかりの深い「大和橋」を取り上げたい。
その「すみよっさん」。祭神は「住吉大神」と総称され、海の神だ。
住吉祭は海の日(今年は7月17日)「神輿洗 (みこしあらい) 神事」に始まり、7月30日「宵宮祭(よいみやさい)」と31日の「夏越祓(なごしのはらえ)神事・例大祭」と続き、翌8月1日の「神輿渡御(みこしとぎょ)」でクライマックスを迎える。
最終日の神輿渡御の舞台となるのが、大和川とそこに架かる大和橋だ。

8月1日、住吉大神の御神霊(おみたま)をうつした神輿は、紀州街道を通り大阪市側の安立町から大和川を渡って堺側の御旅所・宿院 頓宮までの8kmを練り歩く。途中、大和川の中洲で神輿は大阪衆から堺衆へ引き継がれる。
神輿渡御がいつから始まったかは定かではないが、住吉大社によると鎌倉時代の書物『住吉太神宮諸神事』に記録があるという。ちなみに堺市域北部はかつて住吉大社領で、大社と同じ摂津国住吉郡にあり地続きだった。大和川を渡って渡御するようになったのは、江戸時代中期の宝永元年(1704)。大和川の付け替えによって大阪側と堺側が分離されたのがきっかけだ。

大和橋の北詰に大阪市が平成11年に設置した碑がある。その一部を抜粋しよう。

“大阪市と堺市を結ぶ大和橋は、大和川の開削と共に宝永元年、紀州街道が川を渡るところに架けられた公儀橋であった。当時、大和川にはこの橋しかなく、旧暦6月末日に行われていた住吉大社の大祓の祭では一場の舞台となった。神遷しをした神輿をかつぎ数百人が持つ炬火(たいまつ)の火は西宮を始め兵庫、明石から泉州海岸まで見ることができ人々はこの火を目印として神幸を拝したという。これを『住吉の火替(ひかえ)』といった”

島本さんのかるたの絵はこの「住吉の火替」。江戸後期の『摂津名所図会』から模したもので、当時の荘厳な神輿渡御の様子が伝わってくる。行列は御旅所から再び住吉大社に戻る帰路。神輿を見送る堺側の人々が持つ炬火(たいまつ)に対し、大阪側の人々が提灯(ちょうちん)を持って出迎えたので「火替」といった。絵からも分かるように当時、渡御は大和橋の上を通っていたことがうかがえる。住吉大社の歴史年表を見ても、宝永元年の大和川が開削された年に「大和橋に神輿火替え所(神輿安置所)が立つ」とある。

人力による神輿渡御は、戦時中などで中断した時期を除き昭和35年(1960)を最後に途絶えていたが、大和川付け替え300周年の平成16年(2004)、堺高石青年会議所の企画で45年ぶりに復活。翌年、住吉祭りでも人力による神輿渡御が復活した。

それにしても、橋の上で行われた神輿渡御が、なぜ川中で行われるようになったのだろう。
住吉大社に尋ねてみると、今のように神輿を担いで川中を渡るようになったのは明治30年(1897)からという。
「この年に大和橋が全面改修で仮橋になったのがきっかけです。重量の神輿が渡るのは危険であるとの警察による制止もあったようです」。
橋がダメなら神輿を担いで川の中を渡ればいい。川中を渡る渡御はそんな大阪人の気骨の表れではなかったか。こんなことを想像したりする。
木橋だった大和橋が、頑丈な鉄橋に変わったのは大正5年(1916)。その後、2度の架け替えを経て昭和49年(1974)、現在の大和橋に架け替えられた。塔から斜めに張ったケーブルによって橋を支える斜張橋で長さ192m、幅9.5m。阪堺線「大和川駅」のそばにあり、神輿渡御は大和橋と阪堺線の鉄橋の中間辺りの川の中で行われる。

午後3時ごろ住吉大社を出発した神輿の行列は、午後4時過ぎ大和川に到着する。住吉祭では、神輿を担ぐときの掛け声は「ワッショイ」ではなく「べーら べーら」。”俺流”を貫く男衆。水飛沫を上げ、一心不乱に神輿を差し上げる姿はいつの時代も豪快でかっこいい。

大和橋
難波橋
紀州街道に続く「大和橋」
難波橋
車と人が通れる。堺市側より
写真撮影=池永美佐子


大和橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、2015年、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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