橋イラスト

鯨肉が庶民の食卓から消えて久しい。でも、この時期になると一度は食べたくなる「はりはり鍋」。鯨肉と水菜をだし汁で煮たこの鍋は、ひと昔前には近畿地方(とくに大阪や和歌山)に伝わる郷土料理として家庭はもちろん学校の給食にも出てきたが、いまやフグ、クエ等と並ぶセレブな鍋料理になっている。
そんな鯨にまつわる橋が大阪市東淀川区にある。阪急上新庄駅から徒歩約7分。
瑞光寺にある「雪鯨橋(せつげいきょう)」は、なんと鯨の骨でできている。世界広しといえども鯨の骨で造られた橋はここだけだろう。
弘済池(こうさいち)という、境内にある小さな池に架かる雪鯨橋は幅3m、長さ約6m。見るからに鯨という感じ。「くじら橋」の愛称でも親しまれる。反り返った欄干はイワシクジラの下あごの骨で、束柱はクロミンククジラの脊椎。隙間を飾る扇形の板はイワシクジラの肩甲骨だ。橋板は花こう岩だが、昔はここにも鯨の骨が使われていたそうだ。

ルーツは260年前の江戸時代に遡る。寺伝によれば宝暦6年(1756)、4代目住職、潭住知忍(たんじゅうちにん)禅師が現在の和歌山県東牟婁郡太地町付近にあたる南紀太地浦で鯨漁を営む村に行脚した時のこと。不漁に苦しむ村人たちから豊漁祈願を懇願され、祈祷すると鯨が押し寄せた。これに感動した村人たちがお礼にと同寺に黄金30両と鯨骨18本を納めた。潭住禅師は「無駄な殺生の戒め」を込めてクジラを供養し、その骨で橋を造ったという。骨が雪のように白いことからこの名が付いた。
当時から「類なき珍しさ」と称えられ、見物人が押し寄せたらしい。今も社団法人土木学会関西支部による「浪速の名橋50選」や、橋博士・松村博氏の著書「日本百名橋」の番外に選ばれている。

鯨骨の欄干は触ると石のように固いが、やはり風雨にさらされて劣化が進む。これまで何度も改修された。今ある橋は6代目。平成18年(2006)1月、31年ぶりに改修されたものだ。商業捕鯨禁止で材料の確保が難しくなる中、北西太平洋(2004)と南極海(2005)の調査捕鯨で捕獲された鯨の骨が使われた。
お寺によれば次回の改修に備え、今回で最後となった北西太平洋の調査捕鯨で捕獲されたイワシクジラの骨が新たに納められることになったという。現在この骨は大地町の協力で現地の地中に埋められ、丸2年間寝かせて油抜きした後、改修工事にかかる。完成は平成31年(2019)。毎年5月には太子町の児童が修学旅行で同寺を訪れているが、この年に児童らによって奉納され、改修を経てお披露目される予定だ。

「鯨肉はアトピーやアレルギーのある人たちも安心して食べられます。歯は象牙に匹敵する固さで印鑑になり、骨は粉砕して畑の肥料になります。鯨は捨てるところはなにひとつありません」。ご住職の奥さんが話してくださった。

命の糧として鯨を余すところなく活かしきってきた私たち。鯨を大切に尊重してきた日本人の想いや文化の象徴として、こんな橋があることを世界の人々に伝えたいと思う。

雪鯨橋
難波橋
写真撮影=池永美佐子

雪鯨橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
灰色線

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