橋イラスト

西日本最大のターミナル大阪駅の別名でもある「梅田」。しかし、この地名が生まれたのは江戸時代中期。それ以前は繁華街どころか見渡す限りの低湿地帯だった。川村瑞軒による河川の改修や新田開発により泥土を「埋めた」ことから「埋田(うめだ)」と名付けられたという。その後「字面が悪い」との理由から縁起のいい「梅田」になったとされる。

「梅田橋」は、晴れて梅田となったこの地で、今はなき「蜆(しじみ)川」に架かっていた橋だ。蜆川は「曾根崎川」とも呼ばれ、堂島新地と曽根崎新地の境目を流れていた。元禄時代、この蜆川と南を流れる堂島川に挟まれた堂島は、堂島米市場に隣接していたことから色街としても栄え、人形浄瑠璃『曾根崎心中』や『心中天の網島』の舞台になった。

江戸時代の古地図を見ると、蜆川は堂島川から分かれて西を下り、2kmほど先で再び堂島川に合流している。従ってこの間に挟まれた堂島は、いまの「中之島」と同様、島になっていた。また、蜆川には橋が多く、難波小橋を筆頭に蜆橋、曽根崎橋、桜橋、助成橋、緑橋、梅田橋、浄正橋、汐津橋、堂島小橋という10本の橋が架かっていた。
しかし、明治42年(1909)、北の大火で蜆川は崩れ落ちた建物の瓦礫に塞がれて消失。同時に蜆川にかかっていた橋も姿を消した。
ちなみに梅田橋があったのは、現在の堂島3丁目交差点のあたり。道路沿いに建つ「梅田橋ビル」という名に、かろうじてその痕跡を留めている。

梅田橋が登場する『曾根崎心中』はご存知、近松門左衛門が実話をもとに書いて大ヒットした人形浄瑠璃の演目だ。天満屋の女郎、お初(19歳)と内本町醤油商平野屋の手代徳兵衛(25歳)のラブストーリー。理不尽にも大きな借金を背負ってしまい前途を悲観した徳兵衛にお初が同情し、天神ノ森で心中を図る。梅田橋は、死を決めた二人が天満屋を出て天神ノ森へ向かう途中、最初に渡った橋だった。
この近松作品は元禄16年(1703)5月7日に初上演されたが、300年以上を経た今も色褪せることなく人形浄瑠璃や歌舞伎のほか映画やコンピューター・ソフトのキャラクター、初音ミクが歌うロック音楽にもなっている。

『曽根崎心中』の見せ場となる「徳兵衛・お初の道行」にこんな五七調の一節がある 。
「星の妹背(いもせ)の天の川 梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契(ちぎ)りて 
いつまでも我とそなたは女夫星(めおとぼし)」

「鵲の橋」というのは、七夕の夜、牽牛・織女のために何羽ものカササギが羽を連ねて天の川を渡らせるという想像上の橋。男女の契りの橋渡しの例えにも用いる。
当時51歳の近松は、蜆川を天の川に、梅田橋を鵲橋になぞらえて契りを結び「永遠に私とあなたは夫婦星」とロマンチックに表現した。

二人が心中した天神ノ森は、御堂筋を挟んで東側、露天神社(つゆのてんじんしゃ)の裏手にあって、うっそうとした鎮守の森が広がっていた。天満屋は蜆川の南側にあったので川筋に沿って南堤を通ればいいものを、なぜわざわざ橋を渡って北側のコースに?
今となっては知る由もないが、しばしば取り上げられる謎だ。
当時、蜆川の北側には梅田墓地と呼ばれる大きな墓地が広がっていた。店が並ぶ南側は人目につきやすいが、墓地なら人に会うこともないし冥途にも近い。二人はそう考えたのだろう。研究者の多くは、こう推測する。

天神の森で徳兵衛は二人の体を帯で連理の松(二股になった夫婦松)に括り付け、お初の胸をカミソリで刺したあと自らの胸も刺して絶命した。
二人の命がけの恋は人々の涙を誘い、近松は事件をもとに渾身の力を注いで世話物(当時の現代劇)人形浄瑠璃に書き上げた。この演目が大坂の竹本座で上演されると大評判になり、連鎖心中が続出して幕府は心中禁止令を出した。
上演が再会されたのは、時代が飛んでなんと昭和になってからという。

事件以降、天神の森にある露天神社は「お初天神」と呼ばれた。二人の死を悼んで神社を訪れる人々は後を絶たず、昭和47年(1972)曽根崎中1丁目の有志によって「曽根崎心中お初徳兵衛ゆかりの地」の石碑が建立され、さらに平成16年(2004)には地元の商店街などからの寄付金でブロンズ像が製作された。
台座には「貴賤群集の回向(えこう)の種 未来成仏疑ひなき 恋の手本となりにけり」
(身分の上下にかかわりなく多くの人達から祈りを受けて、あの世で成仏する疑いのない恋の手本となった)と曾根崎心中「徳兵衛・お初の道行」の最後の一節が刻まれている。
平成18年(2006)にはファッションデザイナーの桂由美さんや華道家の假屋崎省吾さんらが理事を務めるNPO法人地域活性化支援センターによって、プロポーズにふさわしい「恋人の聖地」に認定された。今や世界中から「恋愛成就」を願う人たちが訪れる。
7月第3金・土曜日(今年は15・16日)には「お初天例大祭(夏祭り)」が行われる。

露天神社
露天神社
露天神社
お初徳兵衛の像
お初徳兵衛の像
写真撮影=池永美佐子

露天神社の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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