橋イラスト

通称「野崎観音」で知られる大東市の禅寺、慈眼寺(じげんじ)で5月1日から8日に行われる野崎詣り。京都・祇園のおけら詣り、讃岐・金毘羅さんの鞘橋の行き違いと並ぶ「日本三詣り」の一つに数えられ、上方落語の演目としても有名だ。中でも落語の「野崎詣り」は歴代桂春団治のお家芸ともいわれ、今年1月に亡くなった三代目春団治の十八番として人気を集めた。

 

野崎詣りは正式名称を「無縁経法要」といい、有縁無縁のすべてのものに対して感謝のお経を捧げる行事。天和2年(1682年)に始まり元禄時代に広まったが、鉄道がなかった明治の中ごろまでは街道を歩くか、天満の八軒家浜から屋形船に乗って行くのが常だった。「お染久松」の悲恋物語にからめて東海林太郎が歌ってヒットした「野崎小唄」でも「野崎詣りは屋形船でまいろ〜♪」と歌われている。
水路ルートは大川から鯰江(まなずえ)川、寝屋川を遡り、徳庵(とくあん)浜を経て住道(すみのどう)で下船し、そこから歩く。鯰江川はかつて寝屋川の北側を並行して流れていた川だ。今は埋め立てられて道路になっている。鯰が多く棲んでいたのでこの名がある。
そして、この道中に欠かせなかったのが「ふり売喧嘩」。船の乗客と川と並行して伸びる堤を行く人が通りすがりに口喧嘩をするという奇妙な風習だ。勝てばその年は縁起がいいと信じられていた。だから喧嘩といっても遊び。決して手を出さないという不文律があった。

 

落語「野崎詣り」では、屋形船に乗り込んだ喜六が物知りな清八に入れ知恵されて堤を歩く人に喧嘩を売る。噺家や時代によって設定やオチが多少変わるが、二人のかけ合いと、喜六の間の抜けた言いがかりが笑いのツボ。クライマックスは低い身長をからかわれた喜六が「山椒は小粒でもヒリヒリ辛い」と啖呵を切ろうとするが、「山椒は」で言葉に詰まり思わず「山椒はヒリヒリと辛い」と言ってしまい、通行人に「小粒を落しているぞ」と笑われる。「どこに?」と思わず下を見る喜六。頭を下げたら負けになる。「うつむいて何を捜しとるんじゃい?」と尋ねられ、「へえ、落ちた小粒を捜しとります」というオチで幕。

 

うららかな陽気に誘われて舟で繰り出す野崎詣り。旧暦では4月初旬に行われた。花あり、縁起担ぎのサプライズあり。人々はテーマパークに出かけるノリで向かったのだろう。

 

鶴見区徳庵2丁目と今津北5丁目を結んで寝屋川に架かる「徳庵橋」は、屋形船で行く野崎詣りのルートを今に伝える。当時の寝屋川の川筋は曲がりくねり今とは大きく異なっていたが、橋の辺りはかつて「徳庵浜」と呼ばれ、川岸に「徳庵堤」が伸びていたという。落語で喜六と清八が船に乗るのもこの辺りだ。水運の中継地点でもあったこの浜には、屋形船だけでなく荷物や農作物、下肥を運ぶ大小さまざまの剣先船が行き交ったらしい。
徳庵橋は幅9m、長さ48m。昭和12年(1937)に架設された初代に続いて昭和49年(1974)に改築された。橋の上から川を覗くとコンクリートの高い堤防で仕切られている。昔のようなのどかな風景がみじんもないのが残念だ。大きな徳庵橋のそばに「徳庵上小橋」「徳庵下小橋」「徳庵南小橋」「徳庵小橋」など「徳庵」と名の付く小橋が4本も架かっている。

 

野崎詣りには、今もJR野崎駅前から続く参道にたくさんの露店が並び、20万人を越える人出で賑わう。野崎観音のある大東市では、昔ながらの野崎まいりを体験してもらおうと、この時期に大阪水上バスと連携して「野崎まいりクルージング&ウォーキングツアー」を実施している。今年も5月1日と2日に実施される。船上では落語も聞けるという。
また、落語だけでなく近松門左衛門の「女殺油地獄」や、お染久松を描いた近松半二の「新版歌祭文」など人形浄瑠璃や歌舞伎の舞台にもなっている野崎観音。境内にある野崎会館には、かるたの作者、島本貴子さんの手による「お染久松」の絵巻物が奉納され展示されている。



徳庵橋
徳庵橋
徳庵橋
写真撮影=冨鶴由江

徳庵橋の位置
地図_徳庵橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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