橋イラスト

大川をまたいで大阪市北区天満橋1丁目と都島区中野町1丁目に架かる「桜宮(さくらのみや)橋」。銀色に塗装されたメタリックな姿から大阪人の間では「銀橋」と呼ばれる。川沿いには南北4.2qにわたって桜の並木道が続く毛馬桜之宮公園や「桜の通り抜け」で有名な造幣局があり、4月初めには周辺が桜色に埋め尽くされる。

地名でもある「桜ノ宮」の名は、橋から500mほど北にある「櫻宮(桜宮神社)」に由来する。しかし、この神社を含む一帯が桜の名所になったのは江戸時代以降だ。
現地の案内板によれば、もともと櫻宮の社殿は大川ではなく、同じ淀川支流で大川と合流する大和川(現・寝屋川)沿いの東生郡野田村「小橋」桜の馬場(現・城東区今福西あたり)にあった。ところが元和6年(1620)に大和川の洪水で社殿が流出。漂着した中野村(現・JR環状線桜ノ宮駅あたり)に再建されたが、ここも低地でさらに2度にわたって水禍に遭い、宝暦6年(1756)、現在の地に遷座されたという。何とも波乱万丈な運命の神様だ。
櫻宮という名にあやかって境内に桜の木が植えられたのは、その後。明治中期には大川の両岸、川崎から長柄の近くまで桜が続き桜の名所になった。明治4年(1871)には造幣局が完成し敷地内にも桜が植樹された。さらに明治16年(1883)「桜の通り抜け」が始まると一帯は大阪屈指の花見の名所になった。花見時には「桜の渡し」と呼ばれる櫻宮から対岸へ渡る船が出た。

この辺りは名水の地でもあった。いま大阪市水道局桜宮給水場のある網島の辺りは、明治時代まで水問屋が軒を並べていたといわれる。また、櫻宮の堤下の辺りには茶の湯に最適なおいしい水が溜まる「青湾(せいわん)」と呼ばれる小弯があった。名付けたのは太閤秀吉。その秀吉をはじめ隠元(いんげん)、売茶翁(ばいさおう)、田能村竹田(たのむらちくでん)などの禅僧や文人画家たちが、好んで茶の湯に愛用したといわれる。
公園の東岸の一角に文人画家の田能村直入(たのむらちょくにゅう)が建てた「青湾」の石碑が遺る。直入は青湾の近くに仮住まいを置き、茶を嗜んだ。裏面には「コノ湾ノ水甘香ニシテ茶ニ適ス汲ミテ尽キズ青霞ヲ吸ウニマサル」と刻まれている。

さて、話を桜宮橋に戻そう。この橋は、天満橋・天神橋・淀屋橋・渡辺橋などと共に大正10年(1921)から始まった大阪市第一次都市計画事業によって架設された。完成は昭和5年(1930)。長さ187.8 メートル、幅22メートル。アーチ橋として戦前では国内最大規模を誇り、時代の象徴でもあった。設計(意匠監修)は「関西建築界の父」と呼ばれた武田五一(1872-1938)。法隆寺や平等院など文化財の復旧にも取り組んだ建築家としても知られる。
交通量の増大に伴い、平成18年(2006)、桜宮橋の横に平行する「新桜宮橋」が新設され、桜宮橋は上り線用となった。
古い橋の両サイドに、なぜかモダンな橋とは不釣り合いな赤レンガ造りのクラシックな塔が建っている。東側の塔は封鎖されているが、西側の塔の中に螺旋階段があり、降りると公園に出る。
そう! これは桜の世界へ誘う入口だったのだ。すぐ横には同じレンガ造りの造幣局がある。設計者の狙いもそこにあったのだろう。塔はまるで未来と古き良き時代をつなぐタイムトンネルのようだ・・・なんて、想像をめぐらしながら橋を渡ると一味違ったお花見ができるかもしれない。

桜宮橋
難波橋
桜宮橋。左端にレンガ造りの塔が
難波橋
難波橋 西側の橋の袂にある塔と螺旋階段
写真撮影=池永美佐子


桜宮橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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