こうした不可解な行動に加え、芭蕉の出身地が伊賀の里で、旅の資金源についても謎が多いなどから「芭蕉・忍者説」や「隠密説」を唱える人も多い。しかし、専門家はこの説に否定的だ。
もともと天(自然)に倣う中で安らぎを得ようという荘子の『天明』思想に傾倒していた芭蕉は、どの道、嘆きや苦しみから逃れられない人生というものに対してアウトローな生活を送ることで克服しようとしたのかもしれない。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた元禄2(1689)年の年末もこの寺の「無名庵」(むみょうあん)」で越年、いったん伊賀上野に帰って3月中旬に再び来訪、9月まで滞在した。
「上の句に見られるように義仲の性格が好きだったことと、 敗者に対する哀惜でしょうか」と、同寺の執事、田附義明さんは話す。
翌年4月には、近津尾神社境内にある「幻住庵」に移住し、ここで過ごした4ヶ月を「幻住庵記」に記している。