FUJITSU ファミリ会 関西支部関西支部FUJITSUファミリ会関西支部FUJITSUファミリ会  
関西支部トップ > WEB連載>第一話>第二話>第三話>第四話>第五話>第六話>第七話>第八話>第九話>第十話>第十一話
  >第十二話>第十三話(5月)>第十四話(6月)>第十五話(7月)>
  >第十六話(9月)>第十七話(10月)>第十八話(11月)>第十九話(1月)>第二十話(2月)>第二十一話(5月)>
  >第二十二話(6月)>第二十三話(7月)>第二十四話(9月)>第二十五話(10月)>第二十六話(11月)
第27話
旅に生き旅に死す。「ありのまま」を見つめた風来の俳聖、松尾芭蕉
 
 
文/写真:池永美佐子
 
小林一茶、与謝蕪村と並んで江戸時代の三大俳人と呼ばれる松尾芭蕉。後世では俳聖として世界的にも知られる。JR石山駅と京阪石山駅をつなぐ歩行者デッキに出ると、旅装束に杖を携えた等身大よりやや大きな芭蕉翁の像が台座もなしに佇んでいる。
日本全国を旅して詩情溢れる俳句を詠んだが、なかでもとくに芭蕉のお気に入りだったのが、ここ大津。
生涯に残した約980句のうち1割近い89句が大津市周辺で詠まれており市内には30を超える句碑が残る。
石山駅から南へ約4kmのところに芭蕉が晩年に滞在した「幻住庵」があるほか、膳所駅近くの「義仲寺」(ぎちゅうじ)には墓所がある。
旅装束に身を包んだ芭蕉像
 
 
●芭蕉は忍者? なぞの多いその人生
松尾芭蕉は寛永21年(1644年)、伊賀国(三重県伊賀市)に生まれた。本名は忠右衛門宗房。「芭蕉」は俳号。その前に「宗房」「桃青」と名乗っている。生家は農民だったが、平氏の末流を名乗る一族で名字が許された。しかし、13歳の時に父、左衛門が死去。武家奉公をする中で俳句の才能を開花させた。
29歳で江戸に出て日本橋で神田水上の修復工事の請負などをしながら、武士や商人に俳句の手ほどきをして生計を立てた。
すでに滑稽味を重視する談林風の俳諧師として多くの門人を抱えたが、37歳の時に突然、辺境の地、深川に移って隠遁(いんとん)世間生活を始める。旅を始めたのもここからだ。

こうした不可解な行動に加え、芭蕉の出身地が伊賀の里で、旅の資金源についても謎が多いなどから「芭蕉・忍者説」や「隠密説」を唱える人も多い。しかし、専門家はこの説に否定的だ。

もともと天(自然)に倣う中で安らぎを得ようという荘子の『天明』思想に傾倒していた芭蕉は、どの道、嘆きや苦しみから逃れられない人生というものに対してアウトローな生活を送ることで克服しようとしたのかもしれない。

実物の1.5倍ぐらいか?
歩行者デッキに佇む芭蕉像
 
 
●大津と木曽義仲をこよなく愛した芭蕉。
義仲寺
芭蕉が初めて大津を訪れたのは貞享2年(1685)の春。亡き母の墓参を兼ねた「野ざらし紀行」の旅の途中だった。
伊賀、大和、吉野、山城から大津を経て美濃へ。大津で琵琶湖を抱く近江の景色に引かれた芭蕉は、それ以降好んでこの地を訪れ、近江の門人たちと心温まる交流を重ねた。
膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)は芭蕉が常宿にした寺だ。旧東海道に面し、当時はすぐ前に琵琶湖が広がる風光明媚な環境にあった。
この寺は、名の通り平安末期の武将、木曽義仲(きそよしなか)が眠る。義仲は平家討伐の兵を挙げて都に入ったが、後に源頼朝軍に追われてこの地で31歳の若さで壮烈な最期を遂げた。
その菩提を弔うべく、尼僧となった側室の巴御前が墓所のそばに草庵を設けて供養したのが寺の始まりと伝えられる。
 
 
「木曾の情 雪や生えぬく 春の草」
木曽とは義仲のこと。芭蕉はここで武将、義仲を偲ぶ句を詠んでいる。 

芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた元禄2(1689)年の年末もこの寺の「無名庵」(むみょうあん)」で越年、いったん伊賀上野に帰って3月中旬に再び来訪、9月まで滞在した。

義仲が生きた時代とは500年のタイムラグがある。にもかかわらず、芭蕉が義仲に思慕したのは、なぜだろう。

「上の句に見られるように義仲の性格が好きだったことと、 敗者に対する哀惜でしょうか」と、同寺の執事、田附義明さんは話す。

翌年4月には、近津尾神社境内にある「幻住庵」に移住し、ここで過ごした4ヶ月を「幻住庵記」に記している。

俳号に由来する
バショウの木(義仲寺) 
 
 
●義仲の墓の横で眠る
芭蕉の墓(義仲寺) 
後ろの建物は「無名庵」
江戸にもどった芭蕉は元禄7年(1694年)、俳諧紀行文『おくのほそ道』を完成させた。
5月に再び西国の門人に会うため旅に出て義仲寺にも滞在。4ヵ月後に大坂で病に伏し、御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で10月12日に没した。
「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」
この名作は死の4日前につくられたものだ。
享年51歳。今の時代なら、まだまだこれからという歳だが???。
臨終の前に弟子の乙州に「骸は木曽塚(義仲寺)に送るべし」と言い残したといわれる。
遺骸は10名の弟子たちによって淀川を船で上って義仲寺に運ばれ、門人ら焼香者80人、会葬者300余人が見守る中、葬儀が行われ、義仲の墓の隣に埋葬された。
10月12日は(義仲寺では11月の第二土曜)「時雨忌(しぐれき)」「翁忌」「桃青忌」などと呼ばれ、ゆかりの場所で供養が営まれている。
 
 
旅を続けた芭蕉の像は全国各地に点在する。近畿地方では、生誕の地である伊賀市役所・伊賀支所や、伊賀鉄道・上野市駅前にもある。
この銅像は、平成5年(1993)、松尾芭蕉没後300年を記念し、芭蕉が晩年に逗留した幻住庵の玄関口となる京阪石山駅に地元粟津西町自治会(芭蕉の里づくり委員会)と地元ライオンズクラブが寄贈建立。
その後、駅前の開発に伴い平成17年(2005)にJR石山駅につながる現在の場所に移転された。制作者は高岡市(富山県)の彫刻家、熊谷友児氏。
芭蕉の没後から320年。時代は移り、暮らしは大きく変わった。しかし、人生90年時代となり寿命は倍ぐらいに延びても、人々の喜びや哀しみは尽きることがなく根底にあるものは同じだ。
「もしもし、そこのお人。そんなに急いでどこに行きなさる。たまには美しい自然に目をやり、心の声を聞いてみてはいかがかな」と、芭蕉さんが問いかけてきそうだ。
道行く人を見送る
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話
第9話 第10話 第11話 第12話 第13話 第14話 第15話 第16話
第17話 第18話 第19話 第20話 第21話 第22話 第23話 第24話
第25話 第26話    
←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
←2010年度連載「関西ゆかりの歴史人物を訪ねて」はこちらからご覧頂けます。
<< 関西支部トップへ
 
All Rights Reserved, Copyright (C) FUJITSU