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第二十四話
日米の友情をつないだワシントンの桜
そのルーツは伊丹に!
 
 
文/写真:池永美佐子
桜便りが待ち遠しい。それにしても私を含めてこの国の人たちは桜を見るとどうしてこんなにソワソワするのだろう…と思いきや、桜好きは何も日本人に限らないようだ。たとえばオバマ大統領の就任式が行われた米国の首都ワシントンD.C.。その一角にある「ポトマック公園の桜」は世界的に有名な桜の名所。毎年3月末から4月のはじめにかけて、河畔の桜並木が開花すると盛大な桜まつりが開催され、全米から観光客が訪れる。
そんなワシントンの桜のルーツが、兵庫県伊丹市にあるという。
今月は、明治、大正、昭和、平成の時代をまたいで日米の友情をつないだ桜の知られざる実話を求めて伊丹へ。
エスコートは、伊丹市のことなら何でもお任せという荒西完治さん。
ポトマック公園
(写真提供=荒西完治)
●有岡城にまつわる謀反の武将・荒木村重と、黒田官兵衛
待ち合わせのJR伊丹駅に現れた荒西さん。「桜の前にちょこっと有岡城の話をしましょうか」と、桜散策の前に、駅前に積まれた有岡城跡の石垣の前で伊丹の歴史をプレ解説。
「有岡城は信長の家臣として活躍した武将、荒木村重が築いた城です。村重は池田氏の家臣でしたが、天正2年(1574)、伊丹氏を打ち落として伊丹城に入城し、有岡城と改名して増改築しました。その規模は半端じゃなくて、城下町を取り込んだ壮大なものでした。村重は信長から38万石を与えられ、摂津守護としての地保を固めていたんですが、天正6年(1578)、毛利の支援を受ける石山本願寺との戦いで、毛利方に寝返った。信長に対して反旗を翻したんですね。諸説あって理由は明らかではありませんが、石山本願寺や足利義昭と密かに通じていたという説が有力です。郷土ゆかりの戦国武将が裏切り者として語り継がれるのは伊丹市民として残念なんですが・・・」。
一方、荒西さんが、この城にまつわる重要人物として、もうひとり挙げるのが黒田官兵衛。「酒は飲〜め、飲〜め♪」の黒田節ゆかりの人物としても知られる。
その話は、こうだ。
九州黒田藩の藩主、黒田長政(官兵衛の子)から、福島正則宅へ使者として出向いた家来の母里太兵衛(もりたへい)。正則に酒を勧められるも、主人から禁酒を命ぜられていた太兵衛は断るが「大杯を飲み干した暁には望みのものをとらせよう」とけしかける。それでも断り続ける太兵衛に正則は「黒田家は腰抜けの侍ばかり、弱虫じゃのう」と罵倒する。主家をここまで侮辱された太兵衛は、とうとう最後には大杯三杯を飲み干し、約束通り名槍「日本号」を手に入れる・・・。黒田節は、そのときの姿を歌にしたものといわれる。
「官兵衛も有岡城と深く関わっているんです。村重が信長に謀反を起こしたとき、官兵衛は村重を説得するために単身で有岡城に説得に赴くんですが、逆に捕らわれて城の牢屋に幽閉されてしまいます。日も射さない狭い牢獄に1年近く閉じ込められた官兵衛は病にかかりもう最期かと思うのですが、牢の柵を伝って伸びてきた藤の花の生命力に支えられて生き延びるんですね。有岡城落城で救出されて九死に一生を得た官兵衛は、藤の花を家紋としました」。
駅の東側の大型ショッピングモールの近くに「藤の木」という地名が広がっているのも、荒西さんは偶然ではないとみる。「確証はありませんが、天守閣と思われる石垣の位置や地形などから、その藤の木があったのは、現在ある伊丹1丁目の免許更新センター西北部分ではないかと推察しているんです」。
 
有岡城跡
(写真提供=荒西完治)
●桜の台木づくりに全力をかけた東野の園芸家たち
噂の桜を求めて、いざ出発! 荒西さんの車で県道尼崎池田線を北上して東野へ。
「ポトマック公園の桜は明治時代の終わり、日本にやってきたディビット・フェアチャイルドという米国の植物学者が桜の美しさに心打たれ、昆虫学者の仲間と一緒に、持ち帰った桜の苗から自国の庭で花を咲かせたのが始まりです。その後、来日経験のある旅行家作家 エリザ・シドモアと桜のお花見会を開いたことをきっかけに桜の木をワシントンに移植する活動が持ち上がり、賛同した当時の大統領夫人ヘレン・タフトの働きかけで時の東京市長、尾崎行雄が桜の苗木をプレゼントすることになりました」。
「桜の苗木を増やすには接ぎ木が必要です。そのためにはまず元気な台木作りが基本になります。台木は元気な桜の木の枝を切り取って土に挿し、枝に根が出て葉や幹の芽がでたものを用い、それに穂木としてほしい種類の桜の木の枝を切り取って接ぐんです」。
道中、荒西さんからワシントンの桜に因む基礎知識を教わる。
そうする間に、車は東野地区へ。
「日米の友情に願ってもないチャンスだと考えた尾崎東京市長は、明治42年(1909)8月、東京市会で桜の寄贈が決定されると、苗木2000本を手配しました。船に積み込まれた苗は約2週間かけてシアトルに到着し、冷蔵貨車で大陸を横断してワシントンに輸送されました。ところがその苗木は害虫が無数について病気にかかっていたんです。苗はすべて焼却処分され、あらためて丈夫な苗を送ることになりました。尾崎市長は農商務省の古在(こざい)農学博士に害虫に強い桜の苗木の調達を依頼して、台木づくりは東野村で、穂木は東京の荒川堤の桜並木から取ることになったんです」。
伊丹や隣接する宝塚、川西、池田は、昔から植木づくりの盛んな地として知られる。いまもこの東野には園芸業を営む家が軒を連ねている。
「とくに東野村では明治9年ごろから果物の苗木づくりをはじめていました。欧米では食後に果物を食べる習慣があることを知って日本でもやがてそうするだろうと先取りしたんですね。和歌山の温州みかんや岡山県の桃、鳥取県の二十世紀梨なんかの苗木も、最初みなこの村で作られました」。
「桜の台木づくりの中心的な人物が久保武兵衛さんでした。村中の人たちが久保さんの家に集まっては技術を仕入れ、1本1本丁寧に植えて世話しました。東京からも3人の技師がやって来て、久保さんの家に泊まり込むこともあったそうです。久保さんの家にはそのために建てた離れが残っています。そして村の神社の前に、苗を殺菌消毒するためのガス薫蒸室が日本で初めて作られました」。
このガス薫蒸室は後に解体されたが、跡地に建てられたのが東野公民館。中には当時のガス薫蒸室の写真が資料として展示されている。
こうして大事に育てられた台木の苗木は、接ぎ木をするため明治43年(1910)12月、尼崎駅から静岡県の興津園芸試験場へ出荷。「台木苗が荷車に積まれて尼崎駅に向かうとき、村の人たちからは万歳!万歳!の声が上がったそうです」。
荒川堤の桜の穂木と接ぎ木された苗木6040本は、明治45年(1912)年横浜港を出港して、無事ワシントンに到着。同年3月27日にはポトマック公園で植樹式が行われたという。
「太平洋戦争の間には敵国の木だということで切られそうにもなったんですけど、現地の人たちが幹を取り囲んで守り抜いたという話が伝えられています」。
3月27日は、ワシントンで行われる桜まつりの開催日であると同時に、日本でも「さくらの日」になっている。
 
瑞ケ池公園
 
ガス薫蒸室の
跡地に建つ東野公民館
●昭和のセレブ元祖イケメン、白洲次郎が住んだ屋敷の門が、東野に残存!
「ところで、桜とは関係ないんですけど、白洲次郎をご存知ですか」と、荒西さん。
「もちろん! 日本で初めてジーンズを履いたといわれる、あのカッコいい男性ですよね♪」。
白洲次郎は、戦後の混乱の中で日本の復興に尽力した人物。身長180cmを越す日本人離れした風貌をもち、ケンブリッジ大学の留学経験で培った英語力と英国風マナーを武器に凛とした姿勢でGHQとの折衝に臨み、アメリカ軍に「従順ならざる唯一の日本人」として恐れられたといわれる。
また、祖父の白洲退蔵は、三田藩儒で明治維新後は鉄道事業を興し、横浜正金銀行の頭取に。父、文平(ふみひら)は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた実業家。どこを見ても、カッコよすぎる経歴だ。
「その白洲次郎が住んでいた邸宅の長屋門が、ここ東野の一角に残っているんです。父、文平は家作りが趣味で芦屋の本宅のほか、伊丹に別荘を建てました。次郎は大正から昭和の一時期、伊丹町に住んでいて、正子夫人との婚姻届も昭和5年に、伊丹町役場に出されています」。
白洲屋敷は、猪名野神社から伊丹緑道を北に上った春日丘付近の高台にあったという。
「この屋敷は、とにかく桁はずれでの規模でした。敷地4万坪といわれ、屋敷の中にはミレーやマティスらの絵画を集めた美術館まであったとか。ところが、文平が破産して屋敷を手放すことになって。一度は大阪栄養工業の創設者、八崎治三朗の所有になった後、土地もろとも切り売れされたんですが、門もその一部です」。
荒西さんの紹介で、移築された門を所有する久保貞雄さんのお宅へ。久保さんもまた、この東野で園芸業を営んでおられる。以下は久保貞雄さんの話。
「移築したのは昭和36年です。屋敷を解体した建設会社の人から、こんな立派なものを廃棄するのは勿体ないから再利用しないかと話をもらったんです。瓦は移設の際に番号をつけて運んで1枚1枚水洗いして葺きました。門の全長は5間(9m)で、扉のほか、1間の格子戸の出窓と、発動機の付いたポンプ室がありました。白州邸ではこの発動機で大水槽に井戸水を汲み上げていたようです。出窓は門番の部屋でした。移築の際に門柱にトラックが当たって壊れたので補強しましたけど、ほとんどもとの材料を使って復元しました」。
5間の門のうち、出入口は2間(3.6m)。引き戸の扉の表面には立派な細工が施された見事なもの。塀の腰板には琵琶湖で使っていた船板で釘の後も残っている。
 
東野に残る
旧白洲屋敷の長屋門
 
 
●桜の返礼で贈られたハナミズキ
桜のルーツを辿る散策は、まだ終わっていない。
荒西さんが次に向かったのは、同じく東野にある伊丹市立荻野小学校。
「大正4年(1915)、桜のお礼に、アメリカから日本へハナミズキの苗木が贈られたんです。ハナミズキの花言葉は、返礼。アメリカでは最も愛される木の一つです。記録によれば、白い苗木が40本とピンクの苗木が12本あったそうです。それらの木は確かに日比谷公園など都内の公園やこの東野にも植栽されたそうですが、戦争を境に敵国の贈り物ということで行方不明になっていたんです。しかし、最近になって、生き残りの原木だと思われる木が、東京都立園芸高校で見つかりました。ここにあるハナミズキは、その子孫樹で、平成11年(1999)に植樹されたものです」。
子どもたちの手によって校庭に植えられたハナミズキは、10年目を向えて高さ約3メートルに。初夏には枝いっぱいに可憐な白い花をつけるという。
 
伊丹市立荻野小学校の
ハナミズキ
(写真提供=荒西完治)
●ワシントンの桜の子孫が瑞ケ池公園に里帰り!
「じゃあ、次は瑞ケ池(ずがいけ)公園に行きましょう」。荒西さんの桜物語はさらに続く。
東野の南に隣接する瑞ケ池公園は、瑞ケ池を取り囲む形でジョギングや散策コース整備され、周囲にソメイヨシをはじめオオシマザクラ、ヤマザクラなど10種約600本の桜が植えられて、市内一の桜の名所として知られる。
その一角に植えられた1本の樹木の前で立ち止まった荒西さん。
「この木は、日本から桜が送られて90周年を記念して、2003年の春、全米州会議から贈られた「里帰りの桜」なんです。瑞ケ池公園の地形は、不思議なことにポトマック公園の地形と偶然にもすごく似ているんですよ」。
「日米友好の桜」の立て札が架っている樹木は、ポトマック河畔に咲く「ソメイヨシノ」の実生から培養した桜だという。3年後の2012年はアメリカに桜が贈られて100周年。「記念イベントができればいいですねぇ」と、にこにこ話す荒西さん。
訪れたこの日はまだ2月半ば。その木は一見、丸裸のようで寒々しい姿だったが、植樹から6年目を迎えた幹は太くなり、近づくと枝から小さな花芽が無数に吹き出していた。周囲の木々と同様に、あと、何日もしない間に華麗な姿に変身するだろう。
瑞ケ池公園の
「里帰りの桜」
(写真提供=荒西完治)
桜はやっぱり満開がいいとか、散る時が一番美しいとか、好みはさまざま。でも、散った後にもみずみずしい新緑が幹を覆い、新たな生命をつないでいく。その姿は凛々しく、神々しさすら感じてしまう。桜という樹木の逞しさを思うとともに、言葉や文化は違っても、美しい花を愛する心は世界共通だとあらためて思う。
開花を待ちわびる瑞ケ池公園の桜を見ながら、どうか平和な世の中が続きますようにと願わずにはいられない。
伊丹のまちも歴史の宝庫。桜以外にも埋もれた史実がぎっしり。そんなタカラモノが見つかると、誰かに教えたくてウズウズしてくる。そんなわけで次号も再び伊丹のまちを歩きます。
 
*次号は伊丹市の中心街と西国街道を歩きます。
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:荒西完治さん
伊丹市職員。 生れも育ちも伊丹市。 「団塊の世代」昭和23年生まれ。
わが町伊丹を国内外に紹介するため、日・英語版のホームページを開設。
伊丹にちなんだ様々な話題を通じて「一期一会」の出会いを大切にしている。
今も休日はボーイスカウト活動に没頭中。
 
 
 
サソ