●桜の台木づくりに全力をかけた東野の園芸家たち |
噂の桜を求めて、いざ出発! 荒西さんの車で県道尼崎池田線を北上して東野へ。 |
「ポトマック公園の桜は明治時代の終わり、日本にやってきたディビット・フェアチャイルドという米国の植物学者が桜の美しさに心打たれ、昆虫学者の仲間と一緒に、持ち帰った桜の苗から自国の庭で花を咲かせたのが始まりです。その後、来日経験のある旅行家作家
エリザ・シドモアと桜のお花見会を開いたことをきっかけに桜の木をワシントンに移植する活動が持ち上がり、賛同した当時の大統領夫人ヘレン・タフトの働きかけで時の東京市長、尾崎行雄が桜の苗木をプレゼントすることになりました」。 |
「桜の苗木を増やすには接ぎ木が必要です。そのためにはまず元気な台木作りが基本になります。台木は元気な桜の木の枝を切り取って土に挿し、枝に根が出て葉や幹の芽がでたものを用い、それに穂木としてほしい種類の桜の木の枝を切り取って接ぐんです」。 |
道中、荒西さんからワシントンの桜に因む基礎知識を教わる。 |
そうする間に、車は東野地区へ。 |
「日米の友情に願ってもないチャンスだと考えた尾崎東京市長は、明治42年(1909)8月、東京市会で桜の寄贈が決定されると、苗木2000本を手配しました。船に積み込まれた苗は約2週間かけてシアトルに到着し、冷蔵貨車で大陸を横断してワシントンに輸送されました。ところがその苗木は害虫が無数について病気にかかっていたんです。苗はすべて焼却処分され、あらためて丈夫な苗を送ることになりました。尾崎市長は農商務省の古在(こざい)農学博士に害虫に強い桜の苗木の調達を依頼して、台木づくりは東野村で、穂木は東京の荒川堤の桜並木から取ることになったんです」。 |
伊丹や隣接する宝塚、川西、池田は、昔から植木づくりの盛んな地として知られる。いまもこの東野には園芸業を営む家が軒を連ねている。 |
「とくに東野村では明治9年ごろから果物の苗木づくりをはじめていました。欧米では食後に果物を食べる習慣があることを知って日本でもやがてそうするだろうと先取りしたんですね。和歌山の温州みかんや岡山県の桃、鳥取県の二十世紀梨なんかの苗木も、最初みなこの村で作られました」。 |
「桜の台木づくりの中心的な人物が久保武兵衛さんでした。村中の人たちが久保さんの家に集まっては技術を仕入れ、1本1本丁寧に植えて世話しました。東京からも3人の技師がやって来て、久保さんの家に泊まり込むこともあったそうです。久保さんの家にはそのために建てた離れが残っています。そして村の神社の前に、苗を殺菌消毒するためのガス薫蒸室が日本で初めて作られました」。 |
このガス薫蒸室は後に解体されたが、跡地に建てられたのが東野公民館。中には当時のガス薫蒸室の写真が資料として展示されている。 |
こうして大事に育てられた台木の苗木は、接ぎ木をするため明治43年(1910)12月、尼崎駅から静岡県の興津園芸試験場へ出荷。「台木苗が荷車に積まれて尼崎駅に向かうとき、村の人たちからは万歳!万歳!の声が上がったそうです」。 |
荒川堤の桜の穂木と接ぎ木された苗木6040本は、明治45年(1912)年横浜港を出港して、無事ワシントンに到着。同年3月27日にはポトマック公園で植樹式が行われたという。 |
「太平洋戦争の間には敵国の木だということで切られそうにもなったんですけど、現地の人たちが幹を取り囲んで守り抜いたという話が伝えられています」。 |
3月27日は、ワシントンで行われる桜まつりの開催日であると同時に、日本でも「さくらの日」になっている。 |
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