「士魂洋才」による古都の再生 田辺朔郎

1888(明治21)年、米コロラド州アスペンで、世界最初の水力発電が成功する。 その頃、日本の京都では、琵琶湖疏水(そすい)トンネル工事がたけなわを迎えようとしていた。 工事の指導者・田辺朔郎(たなべ さくろう)は、アスペンの水力発電を視察し、当初の水車動力利用から水力発電利用に計画を切り替えた。 水力発電を古都の再生に結びつけたその炯眼の源には、幕臣の子がかつての倒幕の志士と士魂を分かつ協働があった。
近代化のリストラとしての琵琶湖疏水
平安建都1200年を祝う京都にも、歴史上4度の大きな危機があった。鎌倉幕府の成立、応仁の乱、江戸幕府の成立、そして明治維新――なかでも最後の東京遷都による危機がいちばん深かった。京都の繁栄を支える根元であり、存在根拠ともいえる天皇家が京都から移住したことはかつてなかった。しかし、かえってそれが、長い歴史のなかで培われてきた市民的伝統の上に大胆な近代化を展開させる動機となった。当時の人々は、その近代化対策を「京都策」と呼んだ。わが国初めての小学校の開校、舎密(せいみ/化学)局の設立、勧業博覧会の開催、クローバーを輸入しての牧場の経営、織物技術を学ぶ留学生のヨーロッパ派遣などである。

が、明治初年のこの第一期京都策は限界にぶつかった。産業の開発を進めようにも京都には原料が乏しく、当時のエネルギー源である石炭の産地とも離れ、内陸都市京都への輸送も不便であった。明治14(1881)年、3代目京都府知事として赴任してきた北垣国道は、第一期京都策に今日で言うリストラを断行し、琵琶湖疏水の建設に力を注ぐ決意をした。
琵琶湖と京都を結ぶ運河の夢は古くからあった。平清盛、太閤秀吉、角倉了以(すみのくら りょうい)といった権力者や豪商が夢見てきた。人間の意思のままに自然を征服しようとする近代的な欲望は、そうした形で前近代に既に孕(はら)まれていた。幕末から明治の初めにかけては、絵図師や農民、筆算を指南する者などといった庶民たちが構想を示すようになった。伝統の裏にまどろんできた京都が近代世界に直面せざるをえなくなった時、自然征服という近代的な欲望が庶民のレベルにまで自覚されるようになったといえるだろう。
田辺朔郎から遡る幕末人脈

京都府知事北垣は、府庁の税務課地理掛に調査させた資料を携えて上京し、参議伊藤博文、ついで内務卿松方正義と会って、琵琶湖疏水建設の賛意を得た。松方は北垣に猪苗代湖の水をひく安積疏水の視察を勧めた。安積疏水第一期工事竣工式に出席したあと、北垣はその工事主任の南一郎平農商務省一等属に会い、そののち農商務省を通して、南一等属による調査を実現させた。また測量の名人島田道生(注1)を、前任地の高知から呼び寄せ、測量を進めさせた。
明治15(1882)年4月、北垣が上京して政府首脳と疏水の認可を受ける件で連日話し合っている時、工部大学校学生の田辺朔郎の訪問を受けた。工部大学校校長大鳥圭介に紹介されてのことである。この最初の出会いで、北垣は21歳の田辺を疏水工事の設計及び施工の最高責任者に任ずる意思を固めた、とする一種の「英雄神話」が流布している。しかし、それは、その後の二人の二人三脚ぶりがあまりに見事だったことも手伝っての、フィクションのようだ(注2)。
それにしてもこの二人の出会いには、不思議な縁に恵まれた運命の糸の結びつきがあった。まず、北垣は天保7(1836)年、但馬(兵庫県北部)の山深き養父(やぶ)の集落能座(のうざ)の庄屋の長男に生まれた。儒学を“但馬の聖人”池田草庵に20年間学ぶ。折からの攘夷の風に目覚め、国事に奔走し、山岡鉄舟、高杉晋作、久坂玄瑞らと交わる。「生野義挙」に農兵を組織して参加するも破れ、鳥取藩に逃亡。さらに長州藩に逃れ、奇兵隊に参加し、北越征討の軍に加わり武勲をたてる。
明治2(1869)年、北垣は弾圧小巡察、ついで大巡察に任命され、たびたび北海道に渡り、明治4年から7年までは北海道開拓使に出仕。その後、熊本県や高知県の知事などを経て、京都府知事になったのである。北垣は北海道の広大な自然のなかで榎本武揚から親しく西欧近代の知識や技術を学んでいる。のちに工部大学校校長となり、田辺朔郎を北垣に紹介した大鳥圭介とも北海道で面識を得たのだろう。
ちなみに大鳥は播州赤穂の出身で、北垣とは同じ兵庫県の生まれだ。大鳥は蘭学を大阪の適塾などで学び、慶応2(1866)年幕臣となり、歩兵頭となって、東北各地を転戦、榎本武揚と合流して五稜郭にたてこもる。大鳥と北垣とは同郷の生まれではあったが、戊辰戦争では敵どうしだった。榎本と大鳥は敗れたのち、大鳥ら旧幕関係者の多くとともに投獄されたが、赦免された。そして彼らとともに開拓使に採用されたのである。かつての敵である榎本に学ぶ北垣の“度量”は、高く評価されてしかるべきだろう。
一方、榎本、大鳥らの戦いの資金調達のために横浜に潜伏して奔走したのが、田辺朔郎の叔父田辺太一であった。太一は明治4(1871)年になって重い腰をあげ、新政府の外務省に仕官し、岩倉具視を大使とする訪欧米使節団にその第一書記官として加わったのである。
左手で書いた卒業論文

田辺朔郎は文久元(1861)年、代々学問をもって幕府に仕えてきた田辺家の長男として江戸に生まれた。父孫次郎は、西洋砲術師範役高島秋帆の弟子であったが、朔郎が生後9カ月の折、異国渡来の麻疹(はしか)で死去。以後、朔郎ら一家は、父の弟の太一に世話になった。
太一は明治4年帰国したさい、使節団が乗ってきた蒸気船内を朔郎に案内して見せ、朔郎を西洋文明の工学の魅力に目覚めさせた。明治8年、朔郎は工学寮小学校に入学し、さらに明治10年、工部大学校(後の東大工学部)に進学。この時、校長になっていたのが、先に触れたように大鳥圭介だったのである。
工部大学校の教師陣は全員イギリス人で、グラスゴー大学教授ランキンによって選ばれた者たちである。グラスゴー大学はイギリス産業革命の輝ける星ジェームス・ワットが「数学器械工」として働き、産学協同をバックに蒸気機関を完成させた栄(は)えある大学である。ランキンは、イギリスの経験と大陸の理論とを総合した新しい工学教育のヨーロッパでも実現していない理想を、遥か極東の地に試みようと意図したのである。
工部大学校の教育課程は普通科、専門科、実地科それぞれ2年ずつに分かれていた。専門科で朔郎は8科のうち土木科を選択した。実地科になると、学生たちはそれぞれ工作局の辞令を受け、全国各地に散らばり、実地に調査研究し、卒業論文にまとめることになっていた。朔郎は、明治14年10月「東海道筋並ニ京都大阪」の担当を命ぜられた。朔郎は運命の地に魅せられたようにひたすら京都に急いだ。疏水計画を知り、独自に調査した。その最中、右手を傷つけた。卒業論文の細密な設計図を描くうえで致命傷であった。しかも、援助を受けていた叔父の太一が破産し、朔郎は借金を背負って勉学を続けるという苦境のなかであった。右手の激痛を我慢しつつ、不慣れな左手で書いた卒業論文は認められ、朔郎は明治16(1883)年第一等で卒業した。
(注1) 島田道生(1849~1925)は、但馬国養父郡八鹿(ようか)村(現・兵庫県八鹿町)の出身で、北垣知事とは同郷である。江馬天江(えま てんこう)および中西耕石(こうせき)に師事し、3年間漢学と南画を修業、のち高橋由一(ゆいち)に洋画、米人クラークに語学と算術を学んだ。明治5(1872)年春、開拓使仮学校(札幌農学校の前身)に入学、御雇(おやとい)教師ライマンらに図学・測量術を学んだのち、M・S・デイについて北海道全土の測量に従事した。これより鹿児島・熊本・高知各県での測量に携わり、明治15年3月京都府六等属となった。(井ケ田良治・原田久美子編『京都府の百年・県民百年史26』山川出版社)
(注2) 織田正文『琵琶湖疏水―明治の大プロジェクト』(サンブライト出版)参照。
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