世界最初の実用無線電話を発明 鳥潟右一

マルコーニによる無線電信の公開実験成功の22年後、1917(大正6)年に、世界で初めて無線電話が実用化された。
三重県鳥羽市の日和山(ひよりやま)と、伊勢湾の答志島・神島を結ぶ「TYK式無線電話」である。プロジェクトリーダーは、当時の電気工学技術研究のメッカ、逓信省電気試験所の鳥潟右一(とりがた ういち)だった。
編集室注 : 名前の読み方に「とりかた」「とりがた」の2種がありますが、当記事では「とりがた」としました。
鳥羽の日和山に立つ「無線電話発祥記念碑」

日本各地の港町に「日和山」という名の小高い丘がある。標高は高いもので7、80メートル、低いものでは10メートル、いずれの日和山も歩いて登れる程度の高さで、頂上に立つと、港とともに海や空のようすが一目でわかる。その名のとおりこの山は、漁業や海運のために天候・空模様(「日和」)を観察する山だった。
三重県鳥羽市にも、標高65メートル程の日和山があり、頂上からは、眼下に答志島が、そして天気のよい時には、伊勢湾を隔てたかなたに三島由紀夫の『潮騒』の舞台になった神島を望むこともできる。この日和山の山頂には、「無線電話発祥記念碑」があり、日和山・答志島・神島を結ぶ無線電話が、大正時代初期、国内で初めて使用されたことと、それが世界で初めての実用無線電話であったことを記念している。
世界初の実用無線電話の名は、TYK式無線電話―開発した3人の名字(鳥潟・横山・北村)のアルファベット頭文字から名付けられた。この3人は、発明当時、逓信省電気試験所の技術者で、なかでも秋田県大館市出身の鳥潟右一がプロジェクトリーダー格となっていた。
日本の電気通信技術をリードした逓信省電気試験所
電気技術が発展し始めたのは、世界的にも1860年代のことで、1870~80年代、本格的に西欧科学技術を移植し始めた日本は、世界の動きにさほど遅れを取ることはなかった。この時期には、移植のための機構や制度の整備が進められる。その一環として外国人技術者を教師として教育も行われ、教育施設としては工部大学校が1877(明治10)年に開設される。この工部大学校およびその後身である帝国大学理科大学・工科大学からは、1890~1900年代に活躍する、第一世代の科学技術者が輩出した。
1891(明治24)年、逓信省電務局内に電気試験所が開設され、日本の電気工学技術研究の中心となる。初代所長に就任したのは、当時33歳の浅野応輔で、工部大学校を卒業した第一世代のエリート技術者である。
マルコーニによる無線電信の公開実験成功の2年後、1897(明治30)年、日本でも、電気試験所の手によって月島・第五台場間の実験に成功する。1901(明治34)年には、無線電信機が兵器として海軍に採用され、日露戦争(1904~1905年)において、ロシア・バルティック艦隊の発見が「敵艦見ユ」と無線電信で通報され、日本海軍の勝利を導く糸口となる。無線電信に世間の注目が集まる時代となり、1909(明治42)年には、電気試験所は名実ともに、無線電信電話技術研究の指導的な役割を果たすようになった。
TYK式無線電話の開発

1903年、デンマーク人のプルーゼンによって電弧式発振器による無線電話の発明がなされる。けれども、この方式は装置が複雑で雑音も多く、とうてい実用になるものではなかった。
このプルーゼンの発明を受け、電気試験所でも無線電話実用化の研究が1907(明治40)年ころから進められていた。研究に携わったのは、当時40代後半の浅野の次世代、すなわち第二世代の技術者たち―いずれも20代の鳥潟右一・横山英太郎・北村政太郎などである。
無線電話実用化のためには、電波を受ける受信器と、安定した周波数の電波を連続して発生する発信器の開発が必要である。TYK式無線電話は、電波を受ける時には鉱石を用い(鉱石受信器)、電波を飛ばす時にはすきまの開いた2つの電極間に電流を流して火花を発生させるしくみ(火花式発信器)を用いた。
受信器に関しては、入所当時から鳥潟が鉱石検波器の研究を進めていたために、比較的容易に開発できた。けれども送信器に関しては、いまだ研究途中で、十数種の鉱石が電極に試用された結果、方式が決定された。
このようにして連続電波を送信する方式は開発されたが、実用のためには問題が残る。というのも火花放電を行うと高熱が発生し、電極に用いられた鉱石が酸化したり溶解したりして、発生する電波が不安定になるからだ。
「逓信省の方でまだ無線電話の話声が聞こえぬうちに帝大の話声(筆者注・同時期に行われていた東京帝国大学の実験)がときどき聞こえてくるのですが、続かないのです」(当時 電気試験所技工・樋口政清の回想)
このため電気試験所では、電磁石で作動する金属棒に一方の電極を固定し、電極間の距離が離れた場合には電磁石を作動させて適切な距離に近づけ、反対に、過大な電流が流れた(電極間の距離が近づき過ぎた)場合には適切な距離に離すような、調整装置が開発された。
「帝大に敗けてはならぬとがんばりました。(中略)調整した結果、無線電話用電波が発振し、人の声が聞こえるようになり、しかも永続して出るので係員一同が万歳を称えて喜びました。それから翌日発明の特許を届出られたようなしだいであります」(同上)
1912(明治45)年(この年、鳥潟30歳)2月のことであった。

その後各種の通話試験が行われ、最終的には、約48キロメートルの通信可能距離が得られ、発明の翌年からは実用試験が行われる運びとなった。
船舶会社・船舶間の実用試験に引き続いて、1914(大正3)年12月16日から1916(大正5)年4月10日まで、鳥羽・神島・答志島間で無線電話の実用試験が行われた。この結果を受けて、翌4月11日から、TYK式無線電話は実用に供されることになる。1万5170通―TYK式無線電話でこの日から翌年3月までの1年間に通話された電報通数である。この数字がTYK式無線電話の実用性を如実に示している。
TYK式無線電話は、鳥羽の日和山、神島の灯台舎宅内、答志島の役場内の3か所に設けられた。神島のそれは、伊勢湾に入る船舶から手旗信号で送られた船名・行き先を鳥羽の無線電話所へ通報、鳥羽からは名古屋・四日市の荷主・船主に一般電報で通報するのに使われた。また、答志島のそれは、魚類取引に関して名古屋・京都・大阪・神戸方面に通報するための電文送受のために用いられた。
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