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新幹線の生みの親 島 秀雄

「車両の神様」と謳われた鉄道技師・島安次郎は、鉄道院総裁・後藤新平のもとで、世界標準である広軌への改築論を強力に推進した。
その「弾丸列車計画」は戦時中に頓挫したが、昭和30年、後藤新平を師と仰ぐ十河(そごう)信二が国鉄総裁に就任すると、安次郎の息子で、名機「D51」の設計者であった島秀雄(しま ひでお)を技師長に迎え入れた。
先進諸国の鉄道斜陽論を覆した全く新しい高速鉄道システム「新幹線」を生み出した「島流システム工学」とは何だったのか。

電車王国を予見した技術者

昭和12(1937)年、島秀雄は世界旅行の途上、オランダはロッテルダムで、ライン川をゆく船から、川岸を走る電車を見た。そのとき彼の脳裏に閃きが走った。日本で電化が進めば、「電車列車」の時代がやってくるに違いない、と。

電車列車は、都市内の路面電車に始まり、都心と郊外を結ぶ私鉄の電気鉄道へと発展し、都市間をつなぐものとなった。蒸気・ディーゼル・電気機関車が引っ張る「機関車列車」では動力が機関車に集中しているのに対し、電車列車はモーターが車両に分散した動力分散方式である。この電車列車が進歩した究極の姿こそ、新幹線にほかならない。島秀雄の船上の閃きは、新幹線への萠芽がその頭脳に生まれた瞬間であった。

島秀雄は大正14(1925)年、鉄道省に入り、蒸気機関車の設計技師としてめきめき頭角を現した。彼が工作局車両課に在籍した10年間は、「日本の国産SLの黄金時代」に重なる。その間、2年ほど島は自動車国産化プロジェクトにも出向し、マルチ技術者ぶりを発揮する。

蒸気機関車の名機「デゴイチ」(D51)は、島が設計したものである。その設計に区切りがついたところで、世界の鉄道事情を調査研究するために、1年9か月に及ぶ世界一周の旅に出た。オランダで受けた啓示のようなものは、その最中の出来事である。

欧米の鉄道先進諸国では当時、機関車列車方式が主流だった。今でも貨物だけでなく客車もそうである。島は、しかし、そこに目を向けず、オランダの電車列車に日本の鉄道のあるべき未来を見た。卓越したSL設計者であり、なおかつ自動車にも明るいマルチ技術者であったからこそ、かえって機関車列車の限界を知っていたのだろう。

大都市が互いに接近しているオランダでは、加減速の効きがよい電車列車が適している。その条件にあてはまった日本は戦後、世界に類のない電車王国を築く。島は、明らかにそのことを予見していた。新幹線は、電車王国・日本の華である。

また、機関車は重い方がよいのに対し、動力分散の電車列車は軽く、地盤が軟弱なオランダにふさわしい。新幹線も電車列車であるため、橋や高架を軽量な構造にでき、建設費の削減に役立った。高架は新幹線から踏み切りを追放し、安全確保に大きく貢献した。

「車両の神様」島安次郎

長い旅から帰国した島を待ち受けていたのは、日中戦争であった。大陸の輸送力増強のため、蒸気機関車を広軌向けに改造する任務が、島に課せられる。電車列車の理想は胸の奥深くに秘められた。

大陸では、レールとレールの幅(ゲージという)が143.5センチ。これが国際標準軌だが、日本では「広軌」ということが多い。日本では鉄道創設以来、官鉄はゲージ幅106.7センチの「狭軌」しかなかった。国内のSLもそれに合わせて設計製造されていたため、大陸へ供出するには、広軌に改造しなければならなかった注1

鉄道創設以来の狭軌という枷(かせ)に技術の面で最も果敢に挑んだのが、島秀雄の父・安次郎(1870~1946)であった。安次郎は「車両の神様」と謳われたほどの鉄道技師。広軌への改築を強力に推し進め、三度も鉄道院総裁を務めた後藤新平のもとで、その技術的支柱となった。

後藤新平、島安次郎の広軌改築論はしかし、狭軌のまま新線を建設していくべきだとする原敬らの政友会と激しく対立した注2。明治43年以降、内閣が変わるたびに方針が両論の間を揺れた。

大正7年、米騒動が起き、圧倒的な議席数を誇る原敬内閣が成立。日本の鉄道は今後狭軌とする院議が可決され、島安次郎は署名を拒否して、国鉄を去った。

それより前、安次郎は広軌改築の機会が必ず来ると信じ、車両を改造しやすいように設計させていた。それが20年以上たって生き、しかも息子の秀雄が、大陸への供出用に改造する手順を単純かつ斬新な工夫で編み直して、安次郎を喜ばせたのだった。

昭和14年、広軌の弾丸列車計画を審議する鉄道幹線調査会が招集された。島安次郎も呼び出され、特別委員会の委員長に選出された。秀雄も車両関係の仕事にあたることになる。翌年に着工されたが、太平洋戦争の敗勢が色濃くなり、19年には中止せざるをえなくなった。

この計画をめぐって交わされた議論は、後の東海道新幹線建設にあたって非常に役立ったと、島秀雄は述べている。この計画は、結果的に、新幹線建設を担う人材育成の役割を果たしたといえるだろう。そのトップは、言うまでもなく島秀雄である。土地買収も岐阜や愛知を中心に進み、それらをつなぎ合わせて、新幹線に利用された。日本坂トンネルは完成し、工事途中に終わった新丹那トンネルは保全され、改修完成後、新幹線に使われた。

(注1) 日本が狭軌であるのは、鉄道というシステムにおいて、ゲージが交通路(線路)と交通具(車両)とを関係づける基本的な要素であることを当局が理解せず、エドモンド・モレルの言うがままに従ったからである。モレルは鉄道建設を指導するため招かれた英国人の技術者で、英領植民地のゲージ採用を勧めたのだ。

(注2) 狭軌延長論を唱える政友会は地方を主な選挙地盤とし、「我田引鉄」で地盤を涵養する本音が、鉄道文明の公共性を日本列島の隅々にまで及ぼそうとする国民国家の建前と一致していた。対するに広軌改築論は、都市を主な選挙地盤とする憲政会系が担い、都市間の大量輸送に都合よしとした。軍部も、帝国の維持・膨張を意図し、軍事力の輸送を効率化するため、これを強く求めた。

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