抗生物質の父 梅沢浜夫

顕微鏡とにらめっこの人生
ここで、梅沢のそれまでの生い立ちを振り返ってみよう。梅沢浜夫は大正3(1914)年10月1日、福井県小浜市の病院長梅沢純一の次男として誕生。その名は小浜の地名にちなんで浜夫と命名された。梅沢家は代々医者であった。そのうちのひとり、江戸時代末に生まれた梅沢良運(1839~1922)は、D・B・シモンズという米国人医療宣教師に師事し、長じて外科医となっている。浜夫の祖父梅沢良三は安政6(1859)年に生まれて眼科医、その長男として明治17(1884)年に生まれた浜夫の父純一は、東京帝大医学部を卒業後、小浜病院長となり、このとき次男浜夫をもうけるが、その後大学に戻り、膜浸透圧の研究により博士号を得ている。
このような頭脳明晰さは浜夫にも遺伝したようである。4歳にして浜夫はすでに読み書きと足し算・引き算ができたという。父純一の札幌鉄道病院の院長への転任にともない、浜夫は札幌の北九条小学校に転校。4年生の春に右手を骨折し休学するが、復学後、休学していたにもかかわらず学業優秀につき飛び級し、小学校を5年で修了。
浜夫が東京帝大医学部に入学した昭和8(1933)年、突然日本は国際連盟を脱退。以降、大東亜戦争へと導くいくつかの事件のなかで、浜夫は学生時代を過ごすことになる。
4年後の昭和12年、日中戦争が勃発。その年、大学を卒業し、同大学のバイ菌学教室の副手となり免疫反応の特異性に関する研究に着手している。このころ、上海を中心とする南中国でコレラが大流行した。日本国内への侵入を未然に防ぐため、浜夫は下関の検疫所に派遣され、毎日2,000人以上の便の検査を行い、それによってバイ菌検査の手法を習得。のちに梅沢は「私の右眼は左眼より大きいが、それは左眼を顕微鏡に押し当てて、毎晩数多くの標本を覗いていたからである」と述懐している。
昭和18年に召集解除され、大学のバイ菌学教室に戻る。稲垣少佐に呼び出され、例のキーゼ・レポートを手渡されたのは、それから8ヵ月後のこと。その10ヵ月後に梅沢はわが国初のペニシリン抽出に成功し、その1年後に終戦を迎えることになるのであった。
微生物は有用物質の宝庫なり

世界と隔絶した状況のなかで、短期間のうちに世界最高水準のペニシリンの開発に成功し、極めて創造的な形で世界へのキャッチアップを果たした梅沢は、戦後いよいよその本領を発揮する。
昭和21年、GHQの命により国立予防衛生研究所が設立される。梅沢はその初代抗生物質部長に就任し、さっそく新抗生物質の探索に取り掛かった。そしてパトリン、アクチノマイシン、クロロマイセチン、ストレプトスライシンなどの新抗生物質を次々に発見。さらに世界の医学界にセンセーションを巻き起こすことになる水溶性塩基性抗生物質「カナマイシン」の発見につながっていく。
梅沢は結核治療に水溶性塩基性抗生物質が役立つに違いないと確信し、その研究に打ち込んでいた。それは研究というより冒険というにふさわしいものであった。なぜなら、この水溶性塩基性抗生物質はマウスに強い遷延性(せんえんせい)毒性を示し、しかも当時の抽出技術をもってしても極めて取り扱いにくい物質群であったのである。しかし、結核治療薬として有用であると確信していた梅沢は、昭和27年に水溶性塩基性抗生物質群の探査を開始し、昭和31年、ついに長野県の土壌の中からカナマイシンを発見する。
このカナマイシンはヒトの結核菌とグラム陽性菌および陰性菌に強い抗菌作用を示し、しかもストレプトマイシンなどに耐性のある結核菌や耐性グラム陰性菌にも有効であることが臨床試験によって証明されたのである。この快挙はたちまち世界中に流れた。昭和33年、ニューヨーク学士院でカナマイシン・シンポジウム開催。ニューヨーク学士院が日本の研究を取り上げた最初のシンポジウムとなったのである。以後カナマイシンは世界中の専門医の間に広く知られるところとなり、結核および感染症の治療に大いに貢献する。

ところで、梅沢がカナマイシンを発見したのは予防衛生研究所内であり、これは厚生省の管轄下にある。そして、時の厚生大臣の計らいで財団法人微生物化学研究会が設立され、梅沢が発見したカナマイシンの莫大な特許料は、この財団が受け取り、さらなる新抗生物質の研究費用に当てられたのである。梅沢はその微生物化学研究所の初代所長に就任。研究所は東京の喧騒と離れた目黒の小高い山の手の丘に建てられ、それは、いずれにも所属せず、自らの研究成果である特許料のみで運営されるという世界でも例を見ない世界最先端の研究機関であった。
ここで梅沢は、ほぼ完成の域に達した抗菌物質の研究から抗ウイルス物質の研究へと進展し、世界で初めて微生物の代謝産物から抗ガン物質および抗エイズ物質を抽出するというまったく新たな研究分野を創始。70種以上の抗菌抗生物質、40種以上の制ガン抗生物質、60種以上の低分子酵素阻害物質、5種の低分子免疫増強物質など、今日の医療に欠くことのできない数多くの新薬を発見しつづけたのだった。その永年の功により、微生物学者の間ではノーベル賞よりも権威があるとされるパウル・エーリッヒ賞をはじめ、数々の栄を受賞した。
研究一筋の人生を歩み、それまで無信心だった梅沢は、死の2週間前、突然「洗礼を受ける」と言って、周囲の者を驚かせたという。不治の病といわれたさまざまな病気を克服し、数多くの人命を救った梅沢だが、刻苦勉励がたたったためか自らの肺に侵入したインフルエンザ・ウイルスに抵抗できず、昭和61年のクリスマスの日、不帰の客となる。享年72歳であった。
国産ペニシリン「碧素」一号の誕生からちょうど50年目を迎えた今日、戦中戦後にわたり抗生物質の父として医学の王道を歩みつづけた梅沢医博が、われわれに与えた恩恵と示唆はあまりにも多大である。
取材協力 : 竹内富雄(微生物化学研究会付属微生物化学研究所所長)/梅沢三重子
参考文献 : 稲垣克彦編『ペニシリン委員会のことども』/梅沢浜夫『抗生物質を求めて』文藝春秋/梅沢浜夫『よい菌・わるい菌』癌と化学療法社/梅沢浜夫・田中信夫編『抗生物質研究の進歩』学会出版センター/岡部昭彦『科学者点描』みすず書房/『日本の創造力』第14巻・NHK出版/『20世紀フォトドキュメント』第6巻・ぎょうせい/『臨床科学』第28巻第8号/『生化学』第63巻第2号/『化学療法の領域』1991年8月号・1992年10月号
[2009年7月1日 公開]
[FUJITSU飛翔 No.18(1994年12月刊)より転載]
著者プロフィール
- 上山 明博(うえやま あきひろ)
- 1955年生まれ。サイエンス・ライター。科学と文学の垣根を超え、広範な分野で執筆活動を展開。著書に『科学を愛したサル』『アトムの時代』『ビジュアル・テレコミュニケーション入門』などがある。
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