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抗生物質の父 梅沢浜夫

わが国で最初にペニシリンの製造に成功したのは、終戦前年の昭和19(1944)年。国産ペニシリン「碧素(へきそ)」一号の誕生から、今年でちょうど50周年を迎える。
その研究の 中心的な役割を果たしたのは、大学の一助手にすぎない若い医博・梅沢浜夫(うめざわ はまお)であった。
戦後、彼はカナマイシンをはじめとする数多くの抗生物質を世界に先駆けて発見し、のちに「抗生物質の父」と呼ばれた。

ペニシリンの噂は敵の陰謀か

昭和18(1943)年12月、同盟国ドイツから、1隻の日本の潜水艦が、敵のレーダー網をかいくぐり、大洋を越えて遥々本国に帰港した。この潜水艦が持ち帰った機密資料のなかに、1冊のドイツの医学雑誌が含まれていた。その雑誌に掲載されていた小さな記事に着目した、時の陸軍軍医少佐・稲垣克彦は、昭和18年12月21日、当時東京帝大バイ菌学教室(現・細菌学教室)の助手であった梅沢浜夫に雑誌“Klinische Wochenschrift(1943年8月号)”を手渡し、その記事を直ちに和訳するよう要請する。記事はベルリン大学マンフレッド・キーゼ教授の記した「Penicillin(ペニシリン)」なるものの臨床報告であった。

第二次大戦末期のこのころ、欧米の連合軍にとって急を要した最重要開発テーマは3つあり、それは最新鋭レーダーと新型(原子)爆弾、それにペニシリンの開発であった。当時、戦争で負傷した兵隊のほとんどは破傷風などの細菌感染によって次々と倒れ、小さなかすり傷でも死に至ることが稀ではなかった。それを救うペニシリンなる夢の万能薬が英国で開発されたという噂を外交官から小耳にはさんだ稲垣少佐は、ドイツの医学雑誌に掲載された小さな化学療法のレポートを手にし、噂のペニシリンなるものが事実であると確信。その研究の重要性を訴えて軍の関係機関を回った。

梅沢があたかも水を得た魚のごとく喜々として翻訳を進めるのとは対照的に、稲垣少佐が主張するペニシリン・プロジェクトの発足は上層部の理解を得られず、陸軍省医務局の承認がなかなか下りないでいた。その理由とは、「ペニシリンなる新薬は情報混乱のために敵国が流した虚偽情報である可能性も少なからずある」と思われたからにほかならない。

そんな折も折、昭和19年1月27日、朝日新聞の海外特派員からの記事が新聞の一面を飾り、それによってペニシリン・プロジェクトは急転直下、日の目を見ることになる。

新聞の題字は「英国チャーチル首相、新薬ペニシリンで救命す!」。当時不治の病とされた肺炎にかかって倒れたチャーチルがペニシリン療法によって奇跡的に救命したというものである。が、この記事は特派員の「早とちり」で、チャーチルに投与された薬は、ペニシリンではなく実際にはズルホン剤であることがのちに分かっている。ともあれ、こうして産学共同研究によるペニシリン国家プロジェクトは発足する。

フレミングから碧素委員会まで

敵国からの外来語である「ペニシリン」は、羊羹1本を懸賞に掲げた和名募集を学会内で行った結果「碧素」と命名。朝日新聞の誤報記事からわずか5日後の昭和19年2月1日、記念すべき第1回碧素委員会が開かれた。この時、陸軍軍医学校校長三木中将を委員長に、東大植物学の柴田桂太教授、東大農学部の藪田偵治郎教授、東大バイ菌学の竹内松次郎教授、慶大バイ菌学の小林六造教授など、日本の各学会を代表する錚々たるメンバー32名が一堂に会した。

当初末席に座り、お歴々の意見を拝聴していた梅沢は、何ヵ月もしないうちにメインテーブルの中央に位置し、最新の研究成果を報告するようになっていた。こうした異例の処置には、当時の戦況も大きく影響していた。空襲の度にフラスコをもって防空壕に逃げ込むことが頻繁となり、一刻も早い碧素の開発が待たれた。そのため学閥や肩書きにとらわれない、能力中心の自由な共同研究体制がとられ、そのことが梅沢に若い発想を活かす土壌を結果的に与えたのである。

キーゼ・レポートの翻訳を終えた梅沢は、9月のある日、研究室の自分の勉強机の上に50本余りの三角フラスコを並べ、176という番号をつけた青カビを培養液に接種して放置。その10日後、培養液の表面にカビの菌膜を発見する。それを抽出し凍らせて乾燥させると、黄色い粉末状のものが出現した! これこそが米英でイエロー・マジック(黄色の魔法)と呼ばれるペニシリンだったのである。使用した青カビは東大農学部の藪田教授から提供された菌株であったため、これを教授のイニシャルを冠してY176号と称し、わが国初の碧素抽出の快挙を委員会に報告する。ときに梅沢浜夫29歳のことである。

そもそもペニシリンという名が初めて登場するのは1929年、英国のアレキサンダー・フレミングによる発見・命名が最初である。しかし、当時学会の常識では「バイ菌による病気に微生物の化学療法などありえない」とされ、それはフレミングも同様だっただろうことは想像するに難くない。折角ペニシリンを発見しながら、当のフレミングは、その後ペニシリンの研究を行ってはいないのである。のちにノーベル賞を受賞することになるフレミング自身、その発見の価値を知りえなかったのだろう。

化学薬剤としてのペニシリンの価値がにわかに注目されたのはフレミングの発見から10年以上たった1940年代初頭。英国オックスフォード大学のフローリーとチェイン両教授がペニシリンを抽出し、その拮抗作用が確認される。それは奇しくも太平洋戦争突入のその年、日本が真珠湾を攻撃した昭和16(1941)年のことであった。

しかし、大戦中、米英でも純粋なペニシリンは抽出できず、その生産もわずかなものであった。そのため貴重な粗製ペニシリンを投与した患者の尿を捨てずに保管し、その尿から抽出したものを再び患者に投与するといった有り様だったという。そんな時代に世界から孤立し空襲にさらされながら、たった8ヵ月で極めて高純度のペニシリンを単離することに成功した梅沢。彼の精製した黄色い粉「碧素」は、640万倍に薄めても病原菌であるブドウ球菌の発育を阻止することが認められ、極めて高い抗菌作用があることが確認されたのである。

そして昭和19年11月、梅沢の指導のもと、森永食品(現・森永製菓)三島工場で国産碧素第一号が製造を開始。碧素は翌年の終戦まで生産され、戦地で負傷した多くの兵士の命を救ったのである。

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