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わが国初の鉄骨構造建築を確立した建築家 横河民輔

揺れることを前提とした骨組構造を取り入れる

明治の建築界では第二世代に入る横河の考え方が、具体的な形になったのが、日本橋の旧三井本館である。

この時期、三井は政商から近代的な産業資本に脱皮しようとしていた。それまでバラバラだった銀行や物産、鉱山、呉服などの店を1つの建物にまとめる構想が持ち上がり、その設計を彼が担当することになったのだ。

明治35(1902)年に完成した建物は地下1階、地上3階。広い中庭をもつ立派なものだったが、そこには新機軸が組み込まれていた。

「最初に考えたのは構造だった」と言っているように、設計に際して彼が苦慮したのは地震対策である。「日本の気候風土にあった建築」という信条からすればこれは当然だろう。

当時、地震論議が活発だったこともある。明治24(1891)年10月、愛知県から岐阜県にかけ、大きな被害を出した濃尾地震によって、多くの建築家が自信を失っていたのである。

横河自身、「いわゆる西洋建築、煉瓦造りの建築に、皆、非常に不安が強かった」と打ち明けている。濃尾地震で、西洋式に煉瓦を積み上げた工場や鉄橋台がもろくも崩れたことにショックを受けたのだ。それまでの西洋を模倣した建築物が、日本の風土に通用しないことを思い知らされたのである。

だが、ここから横河の本領が発揮される。建物の安全性を確保するため、その頃、アメリカで使われていた鉄骨を大々的に使用することを考えたのだ。この時期、日本でも煉瓦構造に鉄骨が使われていたが、ごく一部でしかない。それを本格的に取り入れた。

彼のやり方は、鉄骨で建物の外側の骨組みを組み上げるという方法である。建物をいわば外壁の骨組みで支えたのだ。鉄骨の間には煉瓦を積み上げたが、その煉瓦の壁をタテ、ヨコと籠(かご)状に帯鉄で包み込み、その帯鉄をさらに鉄骨本体にボルトでしっかりと緊結した。

そこにあるのは「建物は本来、揺れて当たり前」とする考え方だ。その秘密はボルトにあった。

鉄骨と帯鉄をボルトで緊結し、地震が起きた時に建物そのものが揺れるようにしたのだ。煉瓦でガッチリと固定した場合に比べて、結合部分から地震で受けた力を“逃がす”ことができるのである。建物自体の重量も軽く、地震に対して有利でもあった。

これはスケルトン(骨組構造)といわれる方式で、外側の躯体で建物を支えているから、室内の間取りを自由にとれ、さらに窓を大きくして採光を十分に確保できる利点があった。

三井内部には、本格的な鉄骨構造を危惧する声もあったそうだ。だが、横河は「大丈夫」と胸を叩いたと言う。実際、この建物は、日本で最初に鉄骨レンガ構造を採用したオフィスビルとして建築史に残る作品となり、独自の耐震構造建築の先駆けとなった。

建築家の枠を飛び越えた和魂洋才のスピリット

大正12(1923)年9月の関東大震災にも、旧三井本館はビクともしなかった。屋根に木材が使われたため、そこから内部に火が入って焼けはしたが、建物の躯体に被害はない。

注目されるのは、横河が「日本造りの家屋の柱部分に鉄柱を使い、家屋の要所要所に鉄梁を架けて締めつけ……」と言っている点である。つまり日本に古く伝わる木造軸組工法にヒントを得て、木造骨組を鉄骨に置き換えたのだ。

地震に対しては、木造が有利というのは、横河の確信だったらしい。というのも、彼は濃尾地震が起きた翌月、いち早く『地震』と題する本を出し、こう書いているのである。

地震に対する構造には「耐震構造」と「消震構造」の2種類がある。「耐震構造」は「地震ニ対スル強硬的ノ主義」であり、「消震構造」は「地震ニ対スルニ柔軟主義」とし、彼自身は地震には「消震構造」が望ましいとする。まともに地震の力と対抗する「剛構造」より、それをスルリとかわす「柔構造」がいいと薦めているのである。

その上で、横河は「煉瓦や石などを使った強固な建物より、日本の仏閣や城郭といった建築物に見られる木組のほうが優れている。これを改良する方が地震に有効だ」と言うのだ。

旧三井本館は、その彼の考え方の延長に位置するものである。
「揺れること」を前提として建物を設計する「柔構造」が、法的に規定されたのは、昭和56(1981)年の新耐震設計基準によってだ。震度という発想が確立されていない明治半ば、耐震構造における「柔構造」を提起したのは、やはり同時代から抜きんでていた。

三井本館建設の折り、彼は自らアメリカに渡り、鉄骨を買い付けた。そこで経済合理性を追求するアメリカ的思考によって、その「実用性」に一層の磨きをかけたことは想像に難くない。

以後、再び個人事務所を開いた横河は帝国劇場、三越百貨店、東京株式取引所本館などを手がけ、合わせて電機計測機器の横河電機、横河橋梁製作所(後に横河ブリッジに改名)などの会社を次々に創設。単なる建築家の枠からはみだした事業活動を続ける。
「実用性」を第一とする横河のオリジナリティがどこから来たのかを考えた時、行き着くのはその姿勢である。

学府の系統とは無縁。「官界」の組織網に立っていたわけでもない。「在野」で、一介の民間人であったことが、社会の要求を的確につかみ、独自の発想を生むバネになった。

明治時代、横河は初めてアメリカに注目した日本人建築家だった。日本とアメリカという2つの要素を包み込んだ和魂洋才のスピリットが、建築に事業にと多彩なアイディアを生み続けた源泉であったことも、また、確かだった。

写真・資料提供 : 株式会社横河ブリッジ

[2009年6月1日 公開]

[FUJITSU飛翔 No.47(2002年11月刊)より転載]

著者プロフィール

滝本 喬(たきもと たかし)
1946年生まれ。ライター。著書に『男たちの転機』『授業を変えれば大学は変わる』『柱の太さで家を決めるな!』(いずれも共著、プレジデント社)、『史上最強の家』(ダイヤモンド社)などがある。

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