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わが国初の鉄骨構造建築を確立した建築家 横河民輔

その男の発想は最初からどこか違っていた。
文明開化とともにやって来た洋風建築。
日本建築界の黎明期、多くの建築家が豪華で意匠に凝った建築技術の導入に目の色を変えていた時、彼は「建築といえども実社会に役に立たなければ意味がない」と公言してはばからない。
いちはやく大地震の危険性を訴え、独自の耐震構造をもつ、本格的な鉄骨煉瓦づくりのビルを完成させた横河民輔(よこがわ たみすけ)の頭にあったのは、形式にとらわれない奔放なアイディアだった。

「柔構造」の利点を説いた異色の建築家

巨大地震は時として奇妙な“演出”をする。平成7(1995)年の阪神淡路大震災の時がそうだ。マグニチュード7.3という激しい揺れを伴ったこの地震で、阪神地域では多くのビルや住宅が倒壊した。

ところが、古ぼけていかにも頼り無げな温室が無傷だったのである。

第一には、温室の建物が軽く、地震によって受ける力が弱かったことがある。同時に細長い木の柱で組み立てられたガラス小屋がグラグラ揺れることで、その力を“吸収”した。結果として温室の構造が「剛構造」ではなく、「柔構造」になっていたのだ。

地震に対して「柔構造」が有効であるという考え方は、現在では珍しくない。だが、100年以上も前の明治時代の半ば、これを提唱した一人の建築家がいた。横河民輔である。

「ヨコガワなんて建築家は聞いたことがない」という人もいるかもしれない。しかし、横河電機や横河ブリッジという会社名なら、一度くらいは耳にしたことがあるはずだ。横河民輔は、これらの会社の創業者である。

建築家で事業家という例は、日本ではほとんどない。横河が“異色の建築家”とされる所以(ゆえん)だが、明治から大正にかけて、彼が建てた建築物にも多くの独創的な手法が盛り込まれていた。

「官界」に背を向け個人設計事務所を開設

横河民輔は兵庫県の出身である。明治23(1890)年、帝国大学工科大学造家学科(現東京大学工学部建築学科)を卒業しているが、とにかくこの男、若い時分から、他とは考え方も行動もいささか違っていた。

例えば、大学を出る時に提出した卒業設計のテーマが「トウキョウ・シティ・ビルディング」である。この建物は外観こそ西欧風だが、一歩、足を踏み入れるとそこは店舗兼住宅で、居室部分は和室だ。2階も和室で、3階だけが洋室という間取りになっていた。「坪庭」も設けられている。

要するに「和洋折衷」の建物で、今で言うゲタバキ・マンションだ。

この作品で彼が主張したのは、日本の伝統的な町家の良さをいかに活かすか、である。西洋式建物に、日本の風土を配慮して、耐震や耐火、あるいは採光や換気の工夫を施していた。

「商人と職人の生活改善、建物の耐震・耐火性の向上策をたてた」と、横河は説明しているが、当時、こうした発想は極めて珍しい。日本の建築界でいわゆるスラム街や住宅の改良が意識されるようになるのは、ずっと後年、時代が昭和に入ってからである。

このことからしても、彼の関心の有り様がいかに特異なものであったか、ということが知れる。

何しろ、工科大学造家学科といえば、日本人建築家を養成するため、明治政府が設けた工学寮が出発点である。「先進国に追いつき追い越せ」を合言葉に、エリート中のエリートを養成する機関だ。卒業生もこぞって「官界」に身を投じ、我こそ日本の建築を引っ張るという気概にあふれていた。

横河の同級生たちが提出した卒業設計も、広壮な建築物や西欧風の大邸宅、大劇場など人目を奪うものばかりである。町家がテーマの彼の設計案は、いかにも“貧弱”に見えたに違いない。恩師で明治建築界の大立者・辰野金吾を呆れさせたのも無理はなかった。

だが、そこには横河の明確な思想が込められていた。卒業後、官庁に就職口を求める仲間を尻目に、彼はさっさと独立して、建築事務所を設立する。民間に身を置くことを選んだのだ。

ちなみにこれは日本人として初めての個人設計事務所である。ただ、この事務所はあまり振るわず、細々と仕事を続けていたが、結局、5年で看板を下ろし、財閥の三井に入ることになる。

ここでも彼が選択したのは「官」ではなく「民」である。

建築に必要なのは様式ではなく実用性だ

建築家・横河民輔の生涯を俯瞰して気がつくのは、その「実用性」だ。それも徹底している。

後に建築学会が「これからの日本の建築様式はいかにあるべきか」について大討論会を開いた時のこと。出席したのはいずれも当代一流の建築家たちで、やれ西欧主義だ、和洋折衷だ、国民様式だなどとやり合っている中で、一人、横河はこう言い放って座を白けさせた。

「様式というような種類のものは、是非どうしなければならぬと云ふ理屈はない……『我国将来の建築様式を如何にすべきや』と云ふ問題はどうか撤回していただきたい」

彼の頭にあったのは、「建築といえども、日本人の暮らしに役立つものでなければ意味がない」とする哲学である。彼にとって、建築に大事なのは「実用性」で、様式などどうでもよかった。

実際、横河は常に日本家屋の改善に心を砕き、衛生などの面から帝大生が見向きもしなかった日本古来の家相の研究もしている。この種の問題に取り組むには「下からの目線」が不可欠で、だから彼は「官界」に興味を示さなかった。

文明開化と共に日本にはありとあらゆる「外国」がなだれ込んでくる。洋風建築もその一つだ。

当初、大工の棟梁や職人が、この意匠に凝った建物を真似て、疑似洋風建築を建てたりしたが、やがて政府も前述したように日本人の建築家養成に乗り出す。辰野や片山東熊、妻木頼黄といった面々は、その第一世代の建築家だ。

彼らが身につけたのはイギリスやフランス、ドイツといった西欧式の建築手法である。あの時代、建築に関するかぎり「外国」はヨーロッパが中心で、かの鹿鳴館を建てたのもイギリス人建築技師だった。辰野たち第一世代の建築家も、ヨーロッパ流の西洋建築を日本の国土にそのまま持ち込もうとした。

言ってみれば、「お上の威光」で、日本人の生活に洋風建築を押しつけようとしたわけだ。

そんな時代、「建築に形式など関係ない」と言ってのける横河は、確かに異端だった。彼の目は飽くまでも「足元」に向けられていたのである。その気持ちを損託したら、「西欧文化に憧れるのも結構。だが、それを直輸入するなどナンセンス。大事なのは、洋風建築を日本の風土に合わせることだ」というところではなかったか。

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