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「類体論」を確立した現代数学の巨人 高木貞治

1920年の世界数学者会議で、数学史の時代を画する理論が発表された。
東京帝大教授・高木貞治(たかぎ ていじ)による「類体論」である。
100年もの間、世界の数学者の頭を悩ませ続けた難問を見事に解決した高木はその後、第1回フィールズ賞の選考委員や、代数的整数論国際シンポジウムの名誉議長を歴任するなど、まさに世界の頭脳として数学界を牽引した。
日本が生んだ伝説的な天才数学者の研究人生をひも解く。

数学のテストはいつも100点だった神童

高木貞治は、日本で最初に文化勲章を受章した世界的な数学者だ。大正9(1920)年に「類体論」を発表し、およそ100年もの間、未解決のまま、世界の数学者の頭を悩まし続けてきた難問を解決した。

幼少の頃は「神童」と言われ、のちに「数論の神様」と言われた高木貞治は、明治8(1875)年4月21日、岐阜県大野郡数屋村(現在の本巣郡糸貫町数屋)に生まれた。

貞治の母・つねの実家の高木家は、代々村の井水を司る名家であった。その家の長女つねは、31歳のときに隣村の農家の木野村家に嫁ぎ、木野村光蔵(きのむら みつぞう)の後妻となる。しかし、つねは田圃作業の際に無数の蛭(ヒル)に血を吸われることに堪えられず、高木家に里帰りして第一子を出産したのを機に、そのまま実家にとどまり、木野村家へは二度と戻らなかった。そのため、木野村光蔵とその妻つねとの間にもうけられた貞治は、つねの実家を継ぐ兄夫婦の高木勘助(かんすけ)とその妻・いをとの長男として役場に届けられたのである。

高木貞治は、毎日うち織りの木綿縞の着物に帯をしめ、近くの一色(いっしき)学校(現在の本巣郡一色小学校)に通った。貞治はもの覚えがよい子で、村の子たちとはめったに遊ばず、暇さえあれば勉強をした。そして実母と伯父夫妻の3人の親に見守られながら、まるでお人形のように大切に育てられた。

当の貞治少年は、村人から神童と噂(うわさ)されるほど学校の成績は飛びきり優秀で、6年の課程をわずか3年で終了。11歳で、岐阜県でただひとつの上級学校であった岐阜尋常中学校(現在の県立岐阜高校)に進学する。

この学校でも成績はつねに一番で、特に数学のテストは100点以外を取ったことがなかったという。そんなある日、数学の教師が、絶対に解けないような特別に難しい問題をテストに出したところ、貞治は難なくこれを解いて、先生を驚かせた。以来、数学教師の助手として教壇に立つ姿がしばしば見られた。また、数学の宿題に悩んだ上級生が助けを乞うことも多く、元岐阜県知事の武藤嘉門も貞治に宿題を手伝ってもらった常連の一人であった、と後年証言している。

その後、京都の三校(第三高等中学校)を首席で卒業し、明治27年、19歳という異例の若さで東京帝国大学理科大学数学科(現在の東京大学理学部数学科)に無試験で入学。当時、帝大の数学科教授は菊池大麓(だいろく)と藤沢利喜太郎(りきたろう)の二人だけで、このうち菊池大麓は貞治の生涯にわたる恩師となった。貞治は帝大在学中に、菊池大麓から数学の面白さを教授され、数学研究の醍醐味を味わい尽くした。

貞治は晩年、「先生が今でも尊敬しておられる方はどなたですか?」との問いに、「やっぱり恩師です。特に菊池先生です。教授としても学長としても文部大臣としても、よくお世話になりました」と答えている。

また、菊池教授が文部省に転出後、藤沢教授が主催するセミナーで選んだ研究テーマは、純粋数学の大問題を扱ったノルウェーの数学者アーベルが導出した「アーベル方程式」であった。そしてこのときすでに貞治は、のちの「類体論」の確立という数学史上、時代を画する研究成果への最初の大きな第一歩を踏み出していたのである。

ところで、貞治の回顧録の中に、大学時代の様子がうかがえる面白いエピソードがある。年上の同級生で、のちに世界最強の磁石鋼(KS鋼)の発明で有名になる本多光太郎が、数学の試験を前にして「俺はノートを四へん読み直したから、どこから出ても大丈夫だ」と自信満々に豪語したという。そのとき貞治は光太郎に向かって微笑しながら「数学って、暗記する学問ですかね」と応えたことが記されている。数学に対する貞治の真摯な態度を物語る興味深い逸話である。

ドイツの大数学者の難問「クロネッカーの青春の夢」

明治30年、東京帝国大学理科大学を卒業し、大学院へ進んだ貞治は、翌明治31年、文部省からドイツ留学を命ぜられ、その年の8月31日横浜港を後にした。

当時ドイツは国際的な科学研究のメッカで、特に数学界は世界の第一線の学者を輩出していた。そのひとり、ベルリン大学の数学教授フロベニウス(注1)は、ある挨拶の中でドイツ科学の隆盛を自画自賛しながら、こう言ったという。「最近、外国人がしきりにドイツへ科学の勉強にやって来る。アメリカ人も来るし、いろんな国からも来る。近頃では日本人さえやって来た。そのうち猿も来るだろう」。フロベニウスの言う近頃やって来た日本人とは、高木貞治にほかならない。

ドイツに着いた貞治は、ベルリン大学のフロベニウスのもとで代数学の研究に着手。1年半後の明治33(1900)年、ゲッチンゲン大学に移籍し、著名な数学者ヒルベルト(注2)のもとで学ぶ。

貞治が研究の拠点をゲッチンゲンへ移した1900年は、来たるべき新世紀を迎えるにふさわしい、記念すべき年となった。この年パリで開催された第2回国際数学者会議(ICM:International Congress of Mathematicians)で、ヒルベルトは世界の数学者に向かって歴史的な講演を行った。ヒルベルトはその講演の中で数学上の未解決の大問題を指摘し、「次代を担う少壮の数学者たちよ、この大問題に挑戦せよ」と訴えかけたのである。

ヒルベルトのこの講演による問題提起が、20世紀の現代数学の発展の大きな契機となったのは言うまでもない。そして、この大問題の解決に真っ先に取り組んだ少壮の数学者のひとりに、高木貞治がいた。貞治はゲッチンゲン大学で、あのヒルベルトが提起した有名な問題のひとつ、一般に「クロネッカーの青春の夢」(注3)と呼ばれる未解決の難問に取り組むのだった。

(注1) フロベニウス(Ferdinand Georg Frobenius 1849~1917) : 抽象群、および近代の抽象的代数構造の概念を創造したドイツの数学者。抽象有限群の表現論を展開した。

(注2) ヒルベルト(David Hilbert 1862~1943) : 不変式論、代数的数体理論、数学基礎論などに取り組んだドイツの数学者。1900年の第2回国際数学者会議で宣言した23項目の解決すべき問題は有名。

(注3) クロネッカーの青春の夢 : ドイツの数学者クロネッカー(Leopold Kronecker 1823~1891)が、楕円関数の虚数乗法について得た予想をいう。それは、虚の2次体Kの上の相対アーベル体(ガロア群がアーベル群となる数体)は、Kの元を虚数乗法にもつ楕円関数の変換方程式から得られるだろうというもので、クロネッカーはこれを友人への手紙の中で「青春の夢」と呼んだ。

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