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「日本のエジソン」と呼ばれた発明王 島津源蔵

洋書の挿絵を手掛かりに蓄電池を完成

二代目源蔵は、器械の近代化を図るためには、その原動力となる蓄電池(二次電池)の必要性を痛感していた。

明治28年頃、源蔵は、同志社大学M・ゲーンズ教授から2冊の洋書を譲り受ける。そのうち、ディスチャネル著『Natural Phylosophy』の挿絵からは蓄電池の原理を、またホプキンス著『Experimental Science』の図解からは蓄電池の極板の仕組みを学習し、これらを手掛かりに鉛蓄電池の試作に取り掛かった。

だが、研究は失敗の連続で遅々として進まず、特に極板の化成に苦心する。しかし試行錯誤の末、極板に過酸化鉛の薄膜を生成することに成功し、明治37年、ついにクロラド式据置用鉛蓄電池(注3)を完成。島津製作所の工場用予備電源として、当時頻繁に起こった停電時に活躍した。この鉛蓄電池は、島津製作所の操業に貢献しただけでなく、同年に始まった日露戦争の勝利に貢献することにもなる--。

日露戦争勃発の翌年、島津製作所に二人の紳士が源蔵を訪ねている。一人は源蔵が蓄電池製作の助言を仰いだ京都帝国大学教授の難波正博士、もう一人は海軍技術部の至宝といわれた木村駿吉技師であった。そのとき、源蔵が二人と交わした話の内容はおよそ次の通りである。

木村技師は、ロシアに勝つためには、世界最強のバルチック艦隊に勝利しなければならないこと、そのためには、バルチック艦隊を迎え撃つわが国の連合艦隊の各艦艇に無線電信機を搭載する必要があることを説明した。そして、無線電信機を動かすための電源として、150アンペアの高性能蓄電池を製作し、大至急海軍に納めてほしい旨を告げたのだった。

日露戦争の勝敗の行方を左右する依頼だけに、源蔵は一瞬、息を飲んだことだろう。むろん源蔵は、二つ返事でその要請を承諾する。だが、じつはこのとき当の源蔵には、短期間で高性能な蓄電池を製作できる当てなどなかったのである。

そこで思いついたのが、予備電源として工場に備え付けていた容量150アンペアのクロラド式据置用鉛蓄電池であった。源蔵は、この蓄電池80個を5個1組にして木箱に納め、携帯用蓄電池11組に再構成する作業を夜を徹して行い、海軍に無事納入。この木箱に小分けされた蓄電池が、巡洋艦・和泉に搭載され「敵艦見ゆ」の無電第一報を伝えた。それによって、無敵艦隊を破り、日本海海戦を勝利に導いたことは、冒頭で記した通りである。

日露戦争で、無線電信機とそれを動かすための蓄電池の重要性が証明されると、需要は一気に急増した。その需要に応えるために、明治41年、源蔵は「GS蓄電池」の商標を掲げ、商品カタログを編纂して学校その他の主な需要家に配布した。ちなみに「GS」は「Genzo Shimazu」の頭文字から採ったものである。

蓄電池に関する数多くの世界的発明

GS蓄電池は、当初、教育用理化学実験機器として製造・販売されたが、急速に販路を拡げ、電信電話や列車の車載用、さらに映画や劇場の予備電源として広く使われるようになった。

このころ源蔵は、蓄電池に関する最初の特許となる「蓄電池(特許第22232号・明治44年12月30日出願)」を取得している。そして大正6(1917)年には、さらなる市場拡大に応えるため、個人経営の島津製作所から蓄電池事業を分離独立し、日本電池株式会社を設立。みずから取締役に就任し、蓄電池の高性能化に取り組んだ。

蓄電池の技術改良で当時最大の課題は、鉛極板の原料である鉛粉の製造法にあった。その難問を解決するため、源蔵は大正7年、日本電池の技術者をフランスに派遣する。すると、世界的に評価の高いチュードル式蓄電池で知られるチュードル社のフランス支社と接触を重ねた日本電池の技術者から、チュードル社の所有する鉛粉製造法の権利を250万フラン(約200万円)で購入することを勧める電報が送られてきた。

その電報を受けて、京都の日本電池で急遽、取締役会議が開かれる。そして、「研究開発にいたずらに費用と日時を費やすより、西洋の進んだ技術を購入し、速やかにこれを実施して需要に応える方が、会社のため、さらには国家のためにも得策である」との意見が大勢を占める。だが一人、源蔵は「蓄電池の性能の鍵が鉛粉の製造法にあることがわかっている以上、自力でそれを解決し、蓄電池の純粋な国産化を目指すことこそ、国家のためである」と主張し、一歩も譲らなかった。

当時、鉛のような伸展性のある柔軟な金属から粉末を作ることは不可能といわれた。しかし源蔵は、柔軟な金や銀もすでに粉末として、屏風や漆器など、日本の伝統工芸に頻繁に用いられていることを思い、鉛塊も粉砕する方法が必ずあると確信していたようだ。そのため、取締役会は、とりあえず源蔵に研究開発を一任し、その成果を待つことにした。

一方、源蔵は、鉛粉の製造のために、柔らかい固体を粉にする方法を検証するため、京都陶磁器試験場を訪ね、陶器粉砕機を借用し、幾度も実験を重ねた。その実験結果に基づいて、直径約1.5メートルの大型円筒形粉砕機を工場内に設置し、条件を変えながら各種の実験を行った。そして、鉛粉の製造量が円筒形粉砕機の回転数と密接な関係があることが次第にわかってくる。

その頃、取締役会議の席上では、源蔵を除く全役員によって「本年中(大正7年)に高性能蓄電池の試作に成功しなければ、チュードル社の製造権を購入すべし」との決議が了承されていた。

そんなある日のこと、源蔵はたまたま、粉砕機の鉛球投入口上辺に塵(ちり)のように積もっている黒いパウダー状の鉛粉を発見した。このパウダーを送風して一個所に集めることができないか?! と源蔵は閃く。その偶然から生まれた発想は、見事に実を結び、送風による集塵方法によって、鉛粉の生産量はこれまでの方法の18倍に飛躍的に向上した。さらに、この製造法によって得られた鉛粉は、単なる鉛ではなく、蓄電池の原料に最適な亜酸化鉛であることがのちに判明する。つまり、マッチ1本で空気中の酸素と容易に反応し、自然燃焼を起こすリサージュ(一酸化鉛=PbO)であったのだ。

帝大教授らとともに十大発明家の一人に推挙

大正7年末、まさに期限切れ直前に、源蔵は、これまで摂氏600度以上の加熱によってのみ可能であった亜酸化鉛の製造法に、「物理的機械的製造法」というまったく新たな方法を世界で初めて確立した。この世紀の大発明は、「易反応性鉛粉製造法(特許第41728号)」の名称で特許庁に出願され、国の内外で特許を取得することができたのである。

昭和5(1930)年、特許庁は世界的な発明を手がけた本邦十大発明家を厳選し、宮中に招いた。顕彰者には、ビタミンB1を抽出した東京帝大の鈴木梅太郎教授や特殊合金を発明した東北帝大の本田光太郎教授らの姿があった。わが国を代表する錚々たる博士たちに混じって、小学校に2年間通っただけの島津源蔵もまた、十大発明家の一人として昭和天皇の賜餐(しさん)の栄に浴した。

昭和26年10月3日、島津源蔵は82年の生涯を全うし他界したが、源蔵が残した特許は、世界12カ国に及び、その数は178件にものぼった。

天才や秀才ではなく「努力と信念の人」と評された発明王・島津源蔵。科学技術の創造を「立身立家立国」のために捧げた、まさに発明一筋の生涯であった。もって瞑すべし--。

(注3) クロラド式鉛蓄電池は、イギリスの電池会社クロラド社が採用した蓄電池で、両極板を何枚か交互に組み合わせ、稀硫酸の入った容器に収められた。

取材協力/写真提供 : 島津創業記念資料館

[2009年4月1日 公開]

[FUJITSU飛翔 No.45(2002年3月刊)より転載]

著者プロフィール

上山 明博(うえやま あきひろ)
1955年生まれ。サイエンス・ライター。科学と文学の垣根を越え、広範な分野で執筆活動を展開。主な著書に『科学を愛したサル』『アトムの時代』『ビジュアル・テレコミュニケーション入門』などがある。

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