「日本のエジソン」と呼ばれた発明王 島津源蔵

昭和5年、特許庁は本邦十大発明家を選出し、宮中に招いた。
帝大教授など錚々たる博士たちの中に一人、小学校を2年で中退した街の発明家の姿があった。
「日本のエジソン」と称された島津源蔵(しまづ げんぞう)である。
蓄電池の性能の鍵を握る鉛粉製造法をはじめ、数多くの世界的な発明を成し遂げた「努力と信念の人」の生涯をたどる。
「敵艦見ゆ」の無電用蓄電池を製作した男

明治38(1905)年5月27日未明、日本連合艦隊の哨戒艦・信濃丸は、世界最強を誇るロシアのバルチック艦隊が対馬海峡を北上するのを発見。「敵艦見ゆ」の無電を旗艦・三笠に発信した。しかし、距離が遠いため三笠には届かなかった。それをたまたま傍受していた巡洋艦・和泉が、信濃丸に代わって転送。さらに敵艦隊の状況を刻々、三笠に打電しつづけた。この和泉の無電が、日本海海戦を勝利に導き、日露戦争に勝利する端緒となったのである。
その和泉の無線電信機の電源には、国産の鉛蓄電池が使われていた。それを独力で製作したのは、「日本のエジソン」と称された発明王・島津源蔵(二代目)である。
ロシアの無敵艦隊に勝利する大きな要因となった無電電源を、独力で完成させた島津源蔵の功績に対し、のちに連合艦隊司令長官・東郷平八郎の名で感謝状が贈られた。
京都舎密(せいみ)局の門前に島津製作所を創業
「日本のエジソン」と言われた島津源蔵とは、いったいどのような人物なのか、その出生から順を追って見てみよう。
源蔵(二代目)は、幼名を梅治郎といい、仏具製造の鍛冶屋を生業とする父・初代島津源蔵の長男として明治2年、京都木屋町二条で生まれている。梅治郎が産声を上げた明治2年は、奇しくも東京遷都が行われた年でもある。桓武天皇が都を平安京に定めて以来、1,000年以上もの間、王城でありつづけた帝都・京都から、天皇が東行され、残された京都市民は大きな失意に包まれた。維新の動乱で興廃し、東京遷都で沈滞した京都を復興するため、ときの京都府知事・槙村正直(まきむら まさなお)は、「学校建営」と「殖産興業」の二大方針を打ち出す。その具体策として、木屋町二条下ルに京都府営の「舎密(注1)局」が創設されたのである。
舎密局は授業と実業とを行い、授業は化学のほか、物理、地質、鉱物、動物、植物と、理化学一般を網羅した。また実業は、薬物の検定や、リモナーデ(砂糖とクエン酸、レモン油を混ぜた清涼飲料水)やイポカラス酒(ワインに生姜などを混ぜた酒)、石鹸などを製造した。
京都復興のまさに原動力として機能しつつあった舎密局の門前で、鍛冶屋を営む初代島津源蔵は、舎密局が進める近代的な理化学教育には、それに相応しい理化学器械が必要であることをいち早く察知し、仏器(三具足)の製造から、教育用理化学器械の製造に転進。そのときの島津製作所の創業時の様子を『京都府誌』(大正9年刊)は、こう伝えている。
「理化学機械は明治5年小学校設置の当時、島津源蔵大いに其の需要起るべきを察し、本府設立の舎密局に就き之が製作の技術を研鑽し、8年3月木屋町二条下る町に於て其製作に従事せり。是れ実に我国斯業の鼻祖にして、現今の島津製作所即是なり。」
明治11年、京都府は舎密局の化学教師として、ドイツ人のゴットフリード・ワグネル博士(注2)を招来した。初代源蔵は、そのワグネル博士の指導のもとで、次々と新しい理化学器械を製造。そして明治15年、わが国で最初の理化学機器の総合カタログ『理化器機目録表』を発行する。この目録表には、約110種類の実験器具の挿絵とその代価が掲載され、蒸留器の項には「ワグネル先生新発明、大小種々製造仕候」と記され、源蔵がワグネル博士から薫陶を受け、製造販売していたことがうかがえる。

一方、初代島津源蔵の長男・梅治郎は、銅駝小学校に2年間通ったのちに中途退学し、父のもとで、9歳のときから鍛冶屋の見習いをはじめた。
その後梅治郎は、父から職人としての術を学ぶかたわら、ワグネル博士をはじめ優れた学者や技術者との知遇を得ることもできた。西洋の知識と接する機会に恵まれたことが、のちの発明の基盤になっただろうことは間違いない。そして、その才が発芽するのに、多くの時間は要しなかった。
梅治郎は、当時世界で最も効率がよいと評判の最新式起電機であったウイムシャースト感応起電機の製作に取り組み、幾度も失敗を重ねながらも刻苦精励、ついにこれを完成させた。ときに明治17年9月。梅治郎、弱冠15歳であった。
梅治郎が製作したこのウイムシャースト感応起電機は、翌明治18年に開催された京都博覧会に出品され、これを見たときの初代文部大臣・森有礼(もり ありのり)は、梅治郎少年の才能に驚き、大いに激励したという。この起電機は、新聞などの報道界の耳目を集め、「島津の電気」として、世間の評判の的となった。
そして明治27年12月8日、初代島津源蔵が脳出血のため55歳の若さで急逝。科学創造立国をめざした父・源蔵の遺志を継ぐかのように、梅治郎が二代目島津源蔵を襲名する。
(注1) 舎密(せいみ)は、江戸末期の代表的な蘭学者・宇田川榕庵がオランダ語で化学を意味する「chemie」を「舎密」の字を当て邦訳したことに由来する。以来、江戸末期から明治期にかけて、舎密が化学の意として広く用いられた。
(注2) ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener, 1831~1892)は、西洋の先進技術を教えるとともに陶磁器、七宝、ガラス、染色など、日本の伝統工芸の工業化にも多くの貢献をもたらし、京都のみならず、日本の近代工業の祖ともいえる人物である。
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