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世界に知られた才能教育 スズキ・メソード 鈴木鎮一

ヴァイオリンを通じた音楽教育法に「スズキ・メソード」というものがある。
日本よりもむしろ、アメリカなど海外で有名だ。
ヴァイオリン工場で育った鈴木鎮一(すずき しんいち)は、23歳でベルリンに留学して正式にヴァイオリンを学び、幼児からの音楽教育にその独創性を発揮した。
音楽家を育てるよりも人間教育を最終目標とし、「どの子も育つ、育て方ひとつにかかっている」との理念を掲げたスズキ・メソードの現代的意義とは。


鈴木鎮一の創始した「スズキ・メソード」は今や世界の四大音楽教育法の一つとなっている。すなわち、コダイ、ウォルフ、リトミック、スズキの四つである。

鎮一は1998年1月26日に99歳で亡くなった。そのニュースの扱いは、日本とアメリカでは違った。

例えば当日の朝日新聞夕刊ではたったの46文字にすぎなかったが、ワシントン・ポストなど全米の有力5紙の報道はスペース的に大きく、鎮一が子どもと一緒に演奏している写真なども掲載していた。

さらに象徴的なことは叙勲の扱いである。文化勲章でも文化功労者でもなく、勲三等瑞宝章(1970年)だった。

日本国内ではあまり評価されずに生涯を終えたと言ってよい。

予期せぬ人生コースを歩むきっかけとなった探検旅行

鎮一は1898年10月17日に父・政吉と母・良の次男として名古屋市東門前町に生まれた。鎮一の父は師範学校にも行き、英語教師を目指していたが、父の祖父が侍で、家計を補うために三味線を作っていたので、それを受け継いで1888年にヴァイオリン工場を創設した。

一時は世界最大のヴァイオリン工場で、1,100人の従業員を雇い、毎日400のヴァイオリンと4,000の弓を製造し、輸出していた。鎮一は将来会社の経理を担当することを期待されて、12歳の時、市立名古屋商業学校に入学した。

鎮一少年は父の薫陶で愛と義にあつく、豊かな感受性と並々ならぬ集中力を持ち合わせていた。小石を投げて蝉をとるのが得意な小学生だった。商業高校では級長を長く務め、野球の投手でもあった。学校に行かない日には、工場の人々に交じって汗を流した。鎮一が帰ってくる姿を見つけると、遠くから子どもたちがいっさんに駆けてくるのが常だった。鎮一は子どもの手をひいて家に帰り、妹や弟たちといっしょに遊んだ。

1915年、17歳の時のことである。いつものように鎮一は工場に行くと、事務室で英文タイプを見つけた。珍しかったので軽くポンポンと打っていると、輸出係の主任がやって来た。

「鎮一さん、紙をはさんでないタイプをたたいてはいけませんよ」

そのとき鎮一は「まねしているだけなんです」とごまかして言い訳した。主任は「ああそうですか」と出て行った。

なぜ素直に謝らなかったのか。鎮一は自分に対する憤りと後悔の念で居ても立ってもいられず、町へ飛び出した。

気を紛らわすために入った本屋で、ふと手にしたのが『トルストイの日記』である。そこには「自分を欺くことは、ひとを欺くことより悪いことである」と書かれていた。それは鎮一にとって、恐ろしい衝撃だった。全身がガタガタとふるえるのをやっとこらえた。それ以降、トルストイ全集や西洋の哲学書、宗教書をむさぼるように読みふけった。

このように、鎮一の自分の言葉に対する異常なまでの責任感は特別といってよい。後年、子どもに「この練習を十万回してください」という時、鎮一はいつも自らも十万回繰り返していた。

18歳で商業学校を卒業すると、父の経営するヴァイオリン工場に就職した。毎朝必ず5時に起き、これは終生変わらぬ習慣となった。

20歳の頃、呼吸器疾患で肺尖(はいせん)カタルのおそれありと診断され、静岡県興津の旅館で3か月間療養した。その旅館で北海道の事業家・柳田一郎の一家と親しくなった。翌1919年、柳田の学習院時代のクラスメイトである徳川義親(よしちか)侯爵を紹介され、徳川侯爵の率いる北千島探検旅行に参加することになった。

これは、鎮一の生涯にとって特筆すべきことの最初である。徳川侯爵のまわりに集まって来るのは、いろいろな領域で一流の人士だった。少年時代から変わらぬ鎮一のたぐいまれな好青年ぶりは、そうした人たちをもひきつけた。

この交流をきっかけに、鎮一は予期しない人生コースを歩むことになる。

挫折感を味わったベルリン留学、そしてアインシュタインとの出会い

ヴァイオリン工場で育った少年時代の鎮一にとって、ヴァイオリンという楽器はいつも身近にあるおもちゃのようなものだった。そのおもちゃが、こんなにも美しい音色を奏でるのかと感動したのは、商業学校の頃、名ヴァイオリニストのエルマンが弾くシューベルトの「アヴェ・マリア」を蓄音機で聴いた時である。とはいえ、鎮一にとってヴァイオリンは、海外の名曲を聴いてまねをする程度の趣味にとどまっていた。

ところが、北千島探検旅行に参加していたピアニストの幸田延の妹・安藤幸にヴァイオリンを師事することになり、一大転機が訪れる。それというのも、徳川侯爵から正式に音楽の勉強をすることを勧められ、侯爵自ら鎮一の実家に出向いて、父を説得してくれたからである。鎮一に東京でヴァイオリンを学ばせるだけの財力が父にあったことも大きい。こうして、音楽家になるなど夢にも思わなかった鎮一の運命の転変が始まった。

1921年、23歳になると、今度は徳川侯爵の世界一周旅行に同行した。ベルリンで皆と別れ、そこに8年間とどまってヴァイオリンの研鑽に励むことになる。最初の3か月は、どの先生に師事すべきかと、コンサートを聴き回った。

結局、カルテットを編成していたベルリン音楽学校教授のクリングラーにつくことができた。クリングラーは弟子をとらない方針だったが、英語の手紙を書いて直訴をしたのだ。最初の4年間はコンチェルトとソナタ、あとの4年間は室内楽を学んだ。教授は、技術よりまず音楽の本質を重視し、例えばヘンデルであれば、いかに高い宗教感覚に満たされて曲を書いたか、そのことを熱心に説いた。

この8年間は、幸せに満たされたというより、ヴァイオリニストとしての挫折感を深く味わった。なにしろレッスンを始めたのは、すでに22歳である。きびしいものがあったに違いない。

それで気持ちを入れ替えて、「芸術とはなにか」というテーマにしぼり、休みなく努力を続けたのであった。

しかしこの時期、人との出会いで再び特筆すべきことがあった。ベルリン滞在中、鎮一の後見人役を引き受けていた医学のミハエルス教授が、アメリカのホプキンス大学の学部長に招聘されることになったので、代わりの後見人役にアインシュタイン博士を紹介したのである。

アインシュタインはよい音楽会があると、よく鎮一に電話をかけて、「切符を買っておいたから、聴きに行きましょう」と誘った。待ち合わせの場所に行くと、必ずアインシュタインのほうが先に来ていた。

このようなホームコンサートで、鎮一はのちに夫人となるワルトラウト・プランゲとめぐり会った。1928年、結婚して帰国。1945年の敗戦まで、国立音楽学校講師や帝国高等音楽学院教授を務め、著作活動を積極的に展開した。

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