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日本の航空史と共に歩んだ「ヒコーキ人生」 木村秀政

発想の起点となった脱アカデミズムの姿勢

「下積み時代が長かったことは、私を鍛えてくれた」と、木村は述懐する。確かに航空研究所での身分は不安定で、赫々(かくかく)とした実績をよそに嘱託から技師、そして東大の助教授になるまでの道のりは平坦ではなかった。

だが、木村が飛行機の研究者として基礎を築いたのはこの時代である。

長距離機の設計に四苦八苦していたころ、木村が教授の小川太一郎に「今までの資料がなくて困る」とぼやいたことがある。すると小川は「そんなものは無いほうがいい」とあっさり答えた。

当時の日本の技術レベルで、長距離飛行の世界記録に挑むなど「身のほど知らず」である。しかも設計の実務を任されたのは、実機を作った経験の無い木村たち若手の研究者だ。「無経験からくる大胆さ」が、無謀な挑戦を可能にしたと木村も言っている。

後年、日本大学で木村の指導を受けた日大航空宇宙工学科専任講師の安部建一は「木村先生がいつも言われたのは『思いどおりにやりなさい』ということでした」と回想する。既成概念や過去の体験に縛られない。若かりしころの自分がそうだったように、「知らないが故の自由な発想」を大事にしたのである。

安部は今、日大航空研究会の顧問として、人力飛行機に取り組む学生に、研究者あるいは技術者としての木村の姿勢を伝える立場にある。その安部は、もう一つ、木村の発想の起点に「脱研究室」の考え方があったとする。

「研究室に閉じこもらない。机で計算するだけでなく、自分で実験をしてみる。計算どおりにやっても、実際には壊れてしまうことはいくらでもあり、その原因をとことん追究する。その積み重ねが大切だと言うのです」

木村は「飛行機の設計では現場を知らないといけない」とも言っていた。「現場を知る」とは、自ら動いて油まみれになるということ。長距離機の開発でも、下戸の木村が工員と酒を酌み交わし、パイロットと胸襟を開いて意見を交わす光景がしばしば見られた。

そこにアカデミズムから飛び出し「現場」を大事にしてきた木村の研究者としての面目があった。

初の国産輸送機に込められた老練技術者の執念

戦後の木村の足跡も順調だったとは言いがたい。敗戦で東大航空研究所が廃止され、教授になっていた木村はわずか1年でその職を追われる。1年半の浪人生活の後、日大工学部の教授に招かれるが、木村の名が改めて注目されるようになったのは、例の「YS-11」の技術委員長になってからである。

昭和33(1958)年、戦後初の国産輸送機を開発するため、輸送機設計研究会が設立される。「YS」は輸送のYと設計のS、「11」は機体とエンジンがそれぞれ第1号という意味だ。

この国家事業にはかつて戦闘機の開発で名を馳せた堀越や土井、さらに「隼」の太田稔、「紫電改(しでんかい)」の菊原静男たち錚々(そうそう)たるメンバーが参加していた。連合軍による航空活動の禁止という「空白の7年」の後、老練の技術者たちは待望の国産機に心血を注いだ。

特筆すべきは、徹底したオペレーション・リサーチを実施、輸送機を双発のターボプロップ・エンジンで低燃費、座席を60と決めたことだ。木村はこう語っている。「1,200メートルの地方空港で使うには60人は多すぎる、と反対の声も強かったが、航空旅客の伸びを予想してあえて60人乗りとした」

「YS-11」は昭和48(1973)年の生産終了まで182機を生産、76機が輸出された。アメリカのエアラインに採用されたのも、事前のリサーチが功を奏したからだ。

「技術的には成功したが、ビジネスとしては失敗」というのが「YS-11」の評価である。国に戦略がなかったこともあるだろう。以後、日本は旅客機の国産化路線から撤退するが、戦後初めて自前の商用機を実現させた背景に、世界との技術ギャップに苦労しながら、一騎当千の技術者たちを束ねた木村の執念があったことは確かだった。

「YS-11」の後、木村は一転して人力飛行機に情熱を注ぐ。

学生の間に生き続ける「九天飛翔」の夢

イギリスで、橋の上から飛び降り着水するまでの飛距離を競う大会を見て、「これはおもしろい」と思ったのがきっかけである。木村はそこに好きな言葉の「九天飛翔」(九天は無限広大な宇宙の意)の夢を描いたのだろう。

「能力も個性も違う人間が、人力で飛行機を飛ばすという目標に向け力を結集する。そのプロセスを通して、夢を実現する感激を学生に味あわせてやりたいと考えられたのだと思います」と言うのは、日本模型航空連盟の理事長、落合一夫である。そこには自分の後継者を育てたいという思いもあったはずだ。

戦後、木村を慕って、俄然、日大の入学者が増えたとされるが、落合もわざわざ他の大学から転校してきた。5年間、木村の指導を受け、昭和29(1954)年に卒業し日本航空に入社、長年、パイロットの教官をしてきた。

日大での木村は、「自分で考える大切さ」を学生に教えたという。

人間は空を飛べない。「不変の真理」の前で学生たちが立ち往生すると、木村は「失敗しても構わない」「ヒントはどこにでも転がっている」と励ました。木村が説くのは「凡才教育」である。

「秀才を教えるのは楽しい。しかし、秀才はごく一部であり、大部分は普通の人間、つまり凡人あるいは鈍才である。学生時代は劣等生だったのに、社会に出ると才能を発揮する者も少なくない。このように隠れた才能を引き出してやることこそ本当の教育ではないか」

今や日本の夏の風物詩になった琵琶湖の「鳥人間コンテスト」は、木村の話を聞いたテレビ局が始めたものだ。これまで29回の大会で、日大航空研究会の優勝が9回。平成17(2005)年の夏には、駿河湾を50キロ飛び、人力飛行機の日本記録を作った。

「多趣味の人だった」と落合は言う。特にダンスに凝り、独特の理論を持っていた。「ダンスはリズムが基本。それさえ外さなければ、ステップは自由にやっていい」と言うのである。要するに「形にとらわれるな」ということだ。

昭和61(1986)年10月、「現場の学者」木村は、82歳の生涯を閉じる。現在、日大航空研究会のメンバーは40人ほど。人力飛行機をやりたいために入会する学生も多い。空を飛ぶことへの夢を追い続けた木村の「モノづくりの精神」は、今も脈々と学生たちの中に生きているのである。

取材協力・写真提供 : 安部建一(日本大学航空宇宙工学科専任講師)/落合一夫(日本模型航空連盟理事長)/航空科学博物館/五戸町図書館(木村秀政ホール)/木村翔

参考文献 : 『わがヒコーキ人生』木村秀政著(日本経済新聞社)/『日本はなぜ旅客機をつくれないのか』前間孝則著(草思社)/『YS-11』前間孝則著(講談社+α文庫)

[2009年1月5日 公開]

[FUJITSU飛翔 No.55(2006年1月刊)より転載]

著者プロフィール

滝本 喬(たきもと たかし)
1946年生まれ。ライター。著書に『男たちの転機』『授業を変えれば大学は変わる』『柱の太さで家を決めるな!』(いずれも共著、プレジデント社)、『史上最強の家』(ダイヤモンド社)などがある。

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