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日本の航空史と共に歩んだ「ヒコーキ人生」 木村秀政

フライング・マシーン(空飛ぶ機械)の魅力にとりつかれ、生涯を大空への夢に賭けた航空工学者、木村秀政(きむら ひでまさ)。
戦前には長距離飛行で世界記録を樹立し、戦後には初の国産旅客機「YS-11」を開発、その足跡は日本の航空史と共にあった。
さらに挑んだのが、人間が自力で空を飛ぶという究極のロマン。
その発想の起点は「カタチにとらわれるな」だった。

「夢のある人間はどんな時でも頑張れる」

学生が必死にペダルを漕ぐ。シャフトでその力を伝えられたプロペラが回りはじめた。異様に主翼の長い機体がゆっくりと動き出す。

スピードが時速20キロに達した時、翼が風をとらえ機体は浮くはず、だった。だが、学生が思いっきり操縦桿を引いてもその瞬間は訪れなかった。

昭和41(1966)年2月20日、東京・調布飛行場。日本大学の航空研究会が開発した日本初の人力飛行機に対する世間の関心は高く、公開飛行が行われたこの日、飛行場には大勢のマスコミが詰めかけていた。

学生を指導したのが、日本の航空界を代表する木村秀政とあればなおのことだ。地面を転がるだけの機体に、果たして木村はどんな反応を示すか?

だいたい人間が自力で空を飛ぶなど自然の摂理に反する。成功しても実用化できるわけではない。そんなことに若いエネルギーを費やしたところで、さして意味があるとは思えなかった。

マスコミの興味と皮肉が混じる視線の中、60歳を超える木村はこう答える。

「夢を持っている人間は、どんな時でも頑張れるものです」

木村自身、「飛行機への夢」を支えに多くの不可能を可能にしてきた。これは木村の正直な気持ちだったにちがいない。事実、その1週間後、人力飛行機は飛んだのである。高度約1メートル、飛行距離15メートルの初飛行だった。

幼いころの「不思議な印象」が「ヒコーキ人生」を決定づける

少年の頃の感激が、人の一生を決めることは少なくない。木村の「ヒコーキ人生」がそうだった。

「全く未知のものに、いきなりぶつかったとき……胸がドキンとし、その印象が心の中に深く入り込んで、私をインスパイアしたような気がする」と木村は書いている。「空とぶ機械」を初めて目にした時の感想だ。

明治44(1911)年2月8日、6歳の時である。

当時、木村少年は、両親と共に札幌から東京の青山に移り住んでいた。自宅の近くに青山練兵場があり、そこに日本の航空界の先覚者、山田猪三郎が作った山田式飛行船が不時着したのだ。

全長33メートル、容積が1500立方メートル。下に付いた長いゴンドラ。強風にあおられ、電線を切断しながら大暴れする飛行船を停止させようと、懸命にロープにしがみつく兵隊たち。野次馬に揉(も)まれ、好奇の目を輝かせていた幼い木村には、その姿が「巨鯨」のように思えたという。

それからまもなく、今度はアメリカの「空中サーカス団」の複葉機が、目黒の競馬場に飛来した。ところがやはり強い風にバランスを崩し、離陸直後に翼端を柵に引っ掛けて壊れてしまう。祖父に連れられてその場にいた木村は、「フワッと数秒間浮いた飛行機の形が不思議に強く印象に残った」と語る。

木村少年はさっそくボール紙とマッチ棒で複葉機の模型を作り、「不思議な印象」を再現して見せた。このあたりが他の子どもと違うところだ。正面から見ただけで尾翼も車輪も付いていなかったが、それはともかくこの後、木村の飛行機へのただならぬ傾倒が始まる。

小学校、中学校、そして高等学校と、読むものはすべて飛行機に関するものばかり。教科書やノートの落書も飛行機。友人から「ヒコーキ」とからかわれるほどの入れ込みようだった。

世間の冷たい視線のなか長距離飛行の世界記録に挑戦

木村秀政と聞いて、「YS-11」を思い浮かべる人は多い。

「YS-11」は、戦後の7年間、連合軍によってすべての航空活動を禁止された日本が、その束縛から解放されて後、初めて開発した国産旅客機である。「航空ニッポン」の再生を託したプロジェクトで、木村は初期の技術委員長に就任、基礎設計を担当した。

それまでの木村の軌跡は、決して華々しいものではない。

飛行機への夢を断ちがたく、大正13(1924)年、一高から東京帝国大学航空学科に入学、大学院を経て東大航空研究所に入る。昭和初期は日本の航空工業の勃興期。他に航空学科を持つ大学がなく、世界恐慌に揺れる中でも卒業生は企業から引っ張りだこだったが、木村は大学に残る道を選んだ。

東大の同期には「零戦」の主任設計者で「天才」と評された堀越二郎、水冷エンジン搭載の戦闘機「飛燕(ひえん)」の主任設計者、土井武夫がいる。企業で活躍する彼らとは違い、航空研究所の末端にいた木村にはこれという仕事もなく悶々とした日々を送っていた。

それでも航研時代、木村はいくつかの重要な計画に関わっている。その一つが長距離飛行機の設計である。

折りしもヨーロッパでは長距離飛行の世界記録が相次いで立てられ、ちょっとしたフィーバーぶりだった。これに日本も挑戦しようというのだが、航空関係者の目は冷たかった。「実地経験のない学者に何ができるか」というわけだ。

そうした声をよそに、昭和13(1938)年5月、試作機は木更津、銚子、大田、平塚を結ぶコースを29周。その時点での世界記録を上回る1万1,651キロの新記録を樹立する。

試作機が初飛行に成功した時、木村は「ザマアミロ」と思ったそうだ。悪評たらたらの学者仲間を見返したという気持ちだろうが、これは一見して優(やさ)男に見える木村の「反骨」である。

次いで昭和19(1944)年、同じく1万6,335キロの世界記録を達成した「A-26」の開発に参画。さらに成層圏飛行を目指す「SS-1」の設計にも携わっている。

「SS-1」は高度9,000メートルを飛行するなど性能を誇ったが、この間、木村は世界でも珍しい引込み脚や、機内の気圧を地上と同じにして一定の気温に保つ与圧装置の設計を担当、日本の航空技術の発展に先駆的な貢献をした。

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