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植物生態学の先駆者 三好 學

明治初年、日本の植物学が分類学のレベルにあった時、植物の生命現象を解明する基礎学問として、本格的な植物生理学研究の道を開いた人物がいた。
三好 學(みよし まなぶ)である。
三好は新たに植物生態学を興し、巨樹や名木の保護を訴え、早くから天然記念物の調査と保存に取り組んだ。
そこにあるのは、近代科学の視点で「実物」を直視し、新たな事実を発見する姿勢である。

「異質さ」がもたらした 時代を読み取る先見性

戦後の経済成長で、日本の自然環境は「開発」という名の「破壊」の波に晒されてきた。多くの貴重な巨樹や名木がいとも簡単に伐採され、人為的に浸食された史蹟・名勝の地も少なくない。

100年以上も前、三好 學は、こうした人間の都合で姿を消していく自然の大切さを訴え、こう語っている。

「天然保護区域においては、絶対的制限を設けなければ保護の甲斐はない。(風景・史蹟は)建築上の制規を設け、風致を損するもの、俗悪なる広告を掲げるものなどは一切許してはならぬ。区域内の動植物の保護に関しても一定の制限を設けることは言うまでもない」

植物や動物、鉱物など日本に固有の自然遺産は無条件で守るべきで、史蹟・名勝も人の手が加わることを厳しく制限する必要があると言うのである。この自然あるいは環境保護の考え方は、現代なら珍しくないかもしれない。

だが、当時は日清・日露の両大戦に勝利し、国を挙げて「富国強兵」の熱気に溢れていた。国力強化の名目の下、あちこちで自然が痛めつけられていた時代、三好學はその「危険性」に警鐘を鳴らしたのである。

三好は、日本の植物学が未だ分類学の域を抜け出せなかった明治時代の半ば、近代科学としての植物生理学を重視し、自ら植物の生態研究にのめり込んでいった。時代背景を考えたら、これは異質である。三好の「先見性」は、この「異質さ」と無縁ではない。

明治、大正、昭和と続く激動期、三好は単なる植物学者に止まらず、教育者、啓蒙家として実にエネルギッシュに活動している。その間、植物学という学問領域を通して、様々な分野に近代科学の視点を持ち込み、日本人が科学技術への認識を高める機運をつくっていった。

小さくても実物を観察すれば新しい事実が発見される

独創的な発想をする人間はしばしば固有の思考法、行動様式を持っている。三好學について言うなら、それは「一点集中主義」である。東京帝国大学で三好の指導を受け、後に千葉大学の教授になる渡辺清彦は、その著作『三好學伝』で、こう書いている。

「先生は“一時一物主義”で、ある研究調査目的をもって旅行されるや、ついでに予定外のものを見られるということはほとんどなく、勧める人があってもそれはまた改めて出直すという方針をとり、着々と物事を片づけていかれた」

いったん、目標を定めたらそれだけに意識を集中する。余計なことには目を向けない。植物採集や天然記念物の調査に出かけても所期の目的を果たすと取って返し、帰りの車中であらかた報告書をまとめてしまう。その集中力が多様な活動を支えていたというわけだ。

東大の教授時代、三好は「たとえ小さなことでも、確実にできる見込みのある実物を着実に研究しないといけない」と語っている。研究者はとかく「新奇な物」に関心を持つが、新しい事実は「実物」をじっくり観察・研究することで発見されると言うのだ。

それは三好の学問と向き合うスタンスであると同時に、生きる姿勢でもあったと言っていい。

三好の人生を振り返ると、その歩みは決して順調とは言えない。

父親の三好友衛は、美濃岩村藩(岐阜県恵那市)の要職にあったが、明治維新で藩が消滅し、失意のうちに46歳で急逝。父親の死により、11歳の三好は福井県三国の伯父宅に預けられた。ここで石川県第三師範学校を卒業した後、岐阜県内の小学校の首席訓導になる。教員と校長職を兼ねる立場である。

明治12(1879)年、まだ18歳だ。

訓導時代、三好は『生理小学』『小学修身読本』『土岐郡地誌略』と3冊の教科書を編纂している。『生理小学』は、人体の生理・衛生に関する教科書だが、当時、これはほとんど簡単な問答形式で書かれていた。だが、三好は敢えて小学生を対象に学問として系統的に記述する方法を採用している。

このあたりにも三好の学問に対する考え方が現れていた。『土岐郡地誌略』は今で言う地理の教科書である。

小学校の訓導をしていたのがほぼ3年間。この短い期間に教壇に立つ傍ら教科書を3冊もまとめたのだから、その集中力とエネルギーは只事ではない。

大自然の生命の不思議が植物学を選択するきっかけに

若い頃の三好は文学者を志していた。父親の友衛に漢学の手ほどきを受け、10歳で漢詩を書いていたほどで、小学校の教員から東京大学予備門に進んだのも、文学への絶ちがたい想いのためだ。その三好が、文学を捨てて植物学の道に入ったのはなぜか?

人生はひょんなことで決まるというが、三好がまさにそうだった。後年、三好はこう話している。師範学校に在学していた明治10年の夏、友人と白山に登山した折りのこと、「該旅行ニテ予ガ偶然ニ感得シタル事ガ、予ノ後半ノ傾向ヲ定ムルニ至ラントハ亦夢想ノ外ナリキ」と言うのである。

登山の途中で知り合ったグループが、道すがら植物の採集をしていた。それに興味を持った三好も彼らを真似て珍しい草や花を採集したというのだ。そして、こう続ける。

「見慣レザル樹木、奇異ノ花草、美麗ノ蘚苔等ガ鬱蒼爛漫トシテ途上ニ現出シ、……予ニ一種特異ノ感覚ヲ生ゼシメタルハ疑イモナキ事実……」

大自然の雄大な景観、そこで密やかに息づく植物たち、その生命現象の不思議--若かりし三好が、そうしたものに感銘を受けたことは想像に難くない。心に焼きついたこれらの印象が、東大予備門の半ばになってふとよみがえり、その後の進路を決めたと言うのである。

時代背景もあっただろう。明治の初年と言えば、欧米列強に追いつき追い越すことが最大の国家目標だった。東大を目指すほどのエリートなら、誰もが工業や建築など理工系への道を選び、立身出世を夢見たはずだ。そうした時代、三好が「今さら文学でもあるまい」と考えたとしてもおかしくはない。

だが、それにしても例えば技術者として国の中枢を担う選択肢もあった。三好はその道を選ばず、植物学、すなわち理学の世界に進む決意をする。そこに三好の独自の姿勢があると言うのは、『評伝 三好學--日本近代植物学の開拓者』という労作を著した酒井敏雄氏である。

「日本が勃興期にあった時、国中が欧米の技術や考え方を模倣しようと慌てふためいていた。それを三好學は冷静な目で見ていたのではないでしょうか。事実あるいは真理というのはもっと基本的なところに目を向け、それを掘り下げないとつかめない。欧米との比較で一喜一憂するのではなく純粋に理学、つまりモノゴトの本質を究明することが大切だと考えたのだと思います」

「文明開化」の当時、鹿鳴館が象徴するように、ヨーロッパ風に着飾った多くの“似非(えせ)紳士”たちが夜な夜な舞踏会に興じていた。その浮ついた世情をよそに、三好は足元を見る必要性を感じていた。酒井氏は、「欧米に遅れていても構わない。右往左往するのではなく、一つのことを確実に徹底してやればいつかは追いつくということです」とも続ける。

それはまさに“一時一物主義”に通じるものだ。その「律儀さ」も三好の一つの、しかし、重大な特徴で、そこに三好のオリジナリティの源泉がある、と酒井氏は指摘するのである。

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