新しい水晶振動子の発見 古賀逸策

テレビからレーダーまで、およそ電波を発射する
あらゆる機器の心臓部に使われているのが水晶振動子。
創立まもない東京工業大学電気工学科の古賀逸策(こが いっさく)は、気温変化による振動数の変動を防ぐ恒温槽を必要としない水晶振動子を発見した。
この発見は水晶制御式精密電気時計の開発を促し、それがやがては、世界の時計産業をリードするクォーツ腕時計の開発につながった。
世界と同じスタートライン
古賀逸策は師に恵まれた。鯨井恒太郎(つねたろう)である。鯨井は当代一流の電気工学者で、多くの後輩たちを育てた。古賀もその一人だった。古賀は鯨井の肖像画を書斎に掲げていた。訪ねてきた知人に問われれば、恩師と答える。知人は久しぶりに聞く「恩師」という言葉に、古賀の気骨を垣間見たような気がすると言う。
古賀は1899(明治32)年、佐賀県に生まれ、東京帝国大学工学部電気工学科に進学した。実家の家計は苦しく、下宿代も払えぬことがしばしばであった。1923(大正12)年に大学院に入り、鯨井の指導を受ける。
当時、東京市では鯨井の指導で電気研究所を設立する準備中であった。古賀は大学院で研究を続けるかたわら、鯨井の尽力するその設立準備を手伝うことになった。研究所が設立されると鯨井が所長となり、古賀も所員となった。
古賀はそうとう高額の月給を受け、当時熊本に住んでいた父母や弟妹たち、家族全員を東京に呼び寄せることができた。
鯨井は、東京市の事業として日本でのラジオ放送を電気研究所から始める計画を進め、古賀も準備に加わった(注1)。
1929(昭和4)年、東京高等工業学校が昇格・改組されて東京工業大学が創立された。鯨井が電気工学科の主任教授となり、古賀は鯨井の推薦で同じく電気工学科の助教授に迎えられた。古賀は東工大に勤めるにあたり、鯨井に注意された。古賀は鯨井の指導で水晶振動子の研究をしていたのだが、これを続けるか否かは学長の指示に従うように、と。初代学長の中村幸之助はこれを聞いて、鯨井に言った。「君はなにをいうのか。君がやっている研究はたいへん特色があるので、私は大いに期待している……」。以来、古賀はその研究に主力を傾けるようになったという。
翌年、古賀は「水晶発振器の特性」で工学博士の学位を受けた。祝いの席上、鯨井が祝辞を述べ、集まった学生たちにこんなメッセージを送った。
「……色々な問題に、次から次へと興味の向くままに手をつける事は、非常に警戒すべき事で、ややもすれば、結局何事も大成しない恐れがある。然しどんな不敏な者でも、一事に専念すれば、あの男がそんなすばらしい事をやったのかと驚きの目を以って見られる程の仕事が必ず出来るものだ」
古賀は、自身が強く戒められたと感じた(注2)。そもそも古賀が水晶振動子の研究に取り組むきっかけを与えたのも、鯨井であった。鯨井は当時、理化学研究所にしか置いていなかった専門誌を、院生になったばかりの古賀に見せた。「おもしろい論文が出ているので、われわれもやってみよう」。論文は、ファラデー、マクスウェルの電磁気学からヘルツ、マルコーニの無線工学への流れに水晶を結び付ける画期的なもので、アメリカのケイデイが著したものであった。
もっとも、初めて水晶を電気とを結び付けたのは1880年、フランスのキュリー兄弟である。天然の水晶から切り出した立方体に圧力をかけると、電気が発生することを見出した。翌年にはリップマンが、逆に電圧を加えると歪みが生じることを実証した。しかし、この圧電現象は何の役にも立たないと思われ、研究開発は進まなかった。
1917年になってようやくフランスのランジュバンが、2枚の厚い鉄板の間に水晶の板をたくさんサンドイッチにして電圧をかけ、超音波を発生させることに成功した。この超音波の発振器は船の底に取り付け、水深を測ったり、潜水艦を探知するのに使われた。
鯨井が着目したケイデイは、さらに第一次大戦中、海軍の研究所でこの発振器を研究するうち、両側の鉄板をはずして水晶だけを共振させたらどうかと考えた。そして、これが無線工学で使われる程度の高周波数になるということを発見した。続いて米国ハーバード大学のピアスが水晶片を真空管回路につなぎ、高周波振動電流源にして空中線に供給し、電波を発生させた。
ケイデイの報告は米国だけでなく、世界中の目利きの学者たちの刮目(かつもく)をひき、古賀も鯨井のおかげで世界の動きとほぼ同時に研究のスタートラインにつくことができたのであった。
怪我の功名で「花咲爺さん」気分
いざ実験を始めると、なかなか大変だった。肝心の水晶片が、宝石の細工店に注文してできあがるのを待たねばならなかった。そのように外部に注文していては振動を正しく理解できない。素性の明確な試料を研究室で自作しようと決意する。
切断の方法を宝石細工店に聞くと、金切り鋸の峰のほうで、泥(カーボランダム)を塗り塗り往復運動をさせるという。これでは5~6センチ径の水晶を切断するのに2日かかる。そこで、薄い金属の円盤の回転運動を利用してみると、わずか15分で済んだ。
板面の研磨は、古賀自ら甲府へ出かけて行き、水晶加工師に弟子入りして学んだ。こうした伝統的な製法に偏光鏡、X線分光器、マイクロメーターなどといった先端的な測定技術を組み合わせ、比較的容易に試料ができるようになった。
水晶片の切り出しは、ケイデイの報告にある通り、キュリー兄弟のやり方からキュリー・カットと呼ばれていた。これは結晶に対して、直交座標軸x、y、zをとり、x軸に垂直に薄い板を切り出す。のちに、切り出された水晶片を「X板」と呼ぶようになった。
ところが実験の協力者は、時には間違って切り出してしまうことがある。そうとは知らずに試してみると、けっこう発振するが、振動数がいつもと違う。調べてみると、六角柱の結晶の側面に平行に切り出していた。こんな怪我の功名で、「Y板」が切り出された。
キュリー・カットだけという思い込みから解放されると、水晶の上端部の六角錐状の一面で、いちばん立派に成長している「R面」に何か特別の意味があるのではないかと思えてきた。この「いわゆる神がかり的な漫然たる考え」から、R面に平行な「R板」、次いでR' 面に平行な「R' 板」を切り出した。すると驚いたことに、非常によく発振する。まるで「花咲爺」気取りで、「ここ掘れワンワン」気分になった。
しかし、実験をしながらも古賀は、科学者として不満だったに違いない。いろいろな水晶板が例外なしに、厚みに反比例した振動数で発振するのに、振動がいかなる性質のものか、その正体が一向に明らかにならなかったからである。
(注1) ラジオ放送事業の出願者は100を超え、結局、出願者を全部まとめて東京では「社団法人東京放送局」をつくることになった。今のNHKの前身である。だが国は、最初の発案者であるにもかかわらず、東京市を社団法人からはずした。機械設備は東京放送局に貸すことになり、古賀も準備を手伝って、1925(大正14)年3月22日、放送が開始された。
(注2) 「鯨井先生ご自身は当時誰もが実に感服する様な、新たな方面の問題を、いち早く手がけられ、而(しか)も実に短期間の間に成果を挙げられるのが特長的」であったのに対し、古賀も「いわゆる鵜の真似をする鳥で、自分の能力を弁(わきま)えず、先生と同じ様に色々な問題に手を出す傾向があった」(古賀逸策「私を育てた師の一言」--古賀逸策先生記念事業会編『古賀逸策先生博士記念文集』所載)
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