胃袋の闇に光を当てた光学技師 「胃カメラ」の発明 杉浦睦夫

終戦直後、廃墟と化した東京で、世界最初の胃カメラが誕生する。
その発明に主導的な役割を担ったのが、カメラメーカーの主任技師・杉浦睦夫(すぎうら むつお)である。
周囲の反対と冷笑を背に、胃カメラの開発に日夜取り組み、わずか一年後の昭和25年に完成。
日本人による胃カメラの発明は、今日の内視鏡先進国・日本の礎となるとともに消化器系ガンの早期発見に威力を発揮するなど、世界の人々の救命に大きく貢献している。
代表的な現代病と言われる胃かいようや胃ガン。これらの消化器系疾患に欠かすことのできない診断器具に、胃カメラがある。しかし、その胃カメラが日本人の発明によるものだということを知る者は稀(まれ)だろう。
胃カメラの開発は、戦前・戦中を通して世界各国の研究者によって試みられたが、いずれも実用化には至らなった。だが、その幻の胃カメラは、焼け跡だらけの戦後の東京で誕生した。発明者は、新しい診断法の確立を目指していた東大附属病院の外科医・宇治達郎と、彼の依頼を受けたオリンパスの主任技師・杉浦睦夫、そしてその部下の深海正治の三人である。
「胃の中を写すと言っても、光がないじゃないか!」
終戦を迎え、わが国の産業はほぼ壊滅状態となっていた。東京・渋谷にあった高千穂光学工業(現オリンパス)の本社と研究所も、東京大空襲でほとんどが灰に帰した。しかし、終戦直前に長野・諏訪に疎開した工場は焼失を免れ、オリンパスの戦後復興はこの諏訪工場を拠点に行われた。その第一歩として、同社が大きな期待を寄せたのが、位相差顕微鏡の製品化である。
位相差顕微鏡は、1935年にオランダで発明され、終戦前年の1944年にツァイス社(独)とポッシュロム社(米)が相次いで製品化に成功したばかりであった。この世界最先端の位相差顕微鏡の国産化に当たったのが、オリンパス研究所の主任技師・杉浦睦夫であった。
杉浦は昭和13(1938)年、東京写真専門学校を卒業後、高千穂製作所(現オリンパス)に入社。終戦当時27歳の第一線の若手研究者である。社運を賭けた研究を任された杉浦は、海外の資料を取り寄せ、より高度な位相差顕微鏡の開発に向け、忙殺の日々を過ごしていた。そんな折、杉浦はある男と運命的な出会いをする。
昭和24年8月31日、諏訪工場で位相差顕微鏡の製品化の打ち合わせを終え、東京の研究所に帰ろうとしていた杉浦に、東京からひとりの来客があった。東京大学附属病院の外科医・宇治達郎である。
胃袋の中を撮影する装置が開発できないか、とオリンパスに打診していた宇治は、オリンパスの常務から主任技師の杉浦を紹介され、わざわざ東京から杉浦の後を追って会いに来たのである。
当時、胃を撮影する装置にはすでにレントゲン写真があり、バリウムを飲んだ上で体外からX線を照射し、胃などの消化器官の像を撮影する方法が用いられていた。しかし、宇治のいう胃の撮影装置とは、胃の中に直接超小型カメラを挿入して胃壁を写真撮影し、レントゲン写真では診断が不可能であった胃かいようや胃ガンなどの早期発見をする、という画期的なものだった。
その宇治の打診に対して、杉浦は「やってみないとわかりませんが、光とレンズとフィルムがあれば写真が撮れますから、まぁ何とかなるでしょう」と、安請け合いをしてしまった。そして杉浦は、諏訪工場に常駐していた研究所長に主旨を報告。すると、所長の電光石火の厳しい口調が飛んだ。「君、それは駄目だよ! 胃の中を写すと言っても、第一、光がないじゃないか! エネルギー論から見ても不可能だよ」。
胃カメラを考える暇があるくらいなら社運を賭けた位相差顕微鏡を一刻も早く完成させろ! という所長の思いが、強い語句となって口から出たのである。
が、この所長の言が、皮肉にも杉浦の研究者魂に火をともすことになる。のちに杉浦は、このときを振り返り「私は、そうですね、と所長に言ってはみたものの、内心は、よーし不可能ではないことを実証してやるぞ! と心の中で叫んだ」と、告白している。
医者と技師の夜を徹した車中問答
所長が反対したのも無理はない。胃カメラが社運を賭けた開発の片手間にできるような代物ではないことは、技術畑の所長には直ちに了解できただろう。「そうですね……」と言って所長室を出た杉浦は、わざわざ後を追って諏訪まで来た宇治に、これから東京へ帰らなければならないことを告げ、宇治とともに下諏訪発の準急列車に乗って東京へと向かう。
折しもこの日、関東一円を大型台風が直撃する。キティーと名付けられた台風は猛威を振るい、死者135名という犠牲者を出すのである。杉浦と宇治の乗った東京行きの列車は、風雨の中を徐行運転しながらも、中央線高尾駅まで来るとついに停止。二人は気まずい思いで身じろぎもしないまま座っていたが、朝まで列車が動かないことを車内放送で知ると、どちらからともなく胃カメラの話になり、次第に夢中になるのだった。
自分の健康管理すらまったく関心のない技術者と、光学機器には門外漢の医者との議論である。最初のうちは話がかみ合わなかったが、日常から遮断された監禁状態での学際的論議は、夜を徹して白熱し、まだ見ぬ胃カメラの骨組みを一気に作り上げることとなった。この日のことを、杉浦は次のように述懐している。
「胃カメラ誕生の運命は、昭和24年8月31日のキティー台風の夜に決まった。宇治さんの諏訪工場への訪問。研究所長の不可能の言。キティー台風による思わぬ長時間ディスカッション。この三つの出来事のうち一つが欠けても今日の胃カメラは生まれなかっただろう」(『私の古い「研究MEMO」より』)
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