日本の近代化学の父 桜井錠二

桜井褒賞の制定と理化学研究所の創設
次に、桜井のもうひとつの業績である、後進の化学者のための研究環境の整備について述べよう。
その第一に挙げられるのが「桜井褒賞」の制定である。明治40年、東京帝国大学理科大学教授在職25周年記念の祝賀会が教え子たちによって催され、その際に集められたお金を桜井は、化学研究奨励のために東京化学会に寄付した。そこで同会では桜井化学研究奨励資金を設け、「桜井褒賞」を制定した。以降、毎年優秀な若手研究者に桜井褒賞が授与され、それは桜井の死後も続けられた。
また、理化学研究所の創設とその運営は、桜井の業績を語る上で特筆しなければならない。理学研究の重要性をかねてより指摘していた桜井は、理化学研究所の設立を早くから摸索していた。その理由について、学術誌上で「国家と理学」の題名を冠し、端的にこう述べている。
「尤(もっと)も諸般の事物を外国に模擬し、其後しりへに随従するを甘(あまん)ずるなれば、理学研究の必要は大ならざるべきも、苟(いや)しくも外国の先を制せんと欲せば、少なくとも之と封立せんと欲せば、理学研究の奨励を措(お)いて、他に求むべき方法手段はあらざるべし」(『東京学士会院雑誌』明治32年)
理化学研究所の設立に当たっては、桜井とともに、同郷・金沢出身のもう一人の化学者・高峰譲吉が、中心的な役割を担っている。
高峰は桜井より4歳年上で、いうまでもなく、消化酵素タカジアスターゼの創製やアドレナリンを発見するなど、アメリカを中心に世界的に活躍した化学者である。その高峰の呼びかけが理化学研究所創設の大きな契機となる。創設の経緯について、『理研五十年』の第一ページは、こんな書き出しで始まる。
「大正2年米国から帰国した高峰譲吉氏は、当時の我国の諸状況を考え、国民科学研究所を創立する必要があることを提唱した。これを受け、30名の実業家及び学者から成る調査委員会が設立され、検討の結果まず最も急務とされる化学研究所を設立することが企画された」
かくして大正6(1917)年3月、財団法人理化学研究所は誕生した。そして、初代所長に菊池大麓、副所長には桜井錠二が就任した。
ノーベル賞受賞者輩出の土台を築く
東京帝国大学で教授の「六十歳停年制」導入の必要性が叫ばれた折、多くの斯界(しかい)の長老が教授の座にとどまり続けるなか、桜井は還暦を迎えるとさっさと理科大学学長兼教授を依願退職し、後進に道を譲った。そして、学士の最高位である帝国学士院院長など、前述の要職を歴任したのち、昭和18(1943)年1月28日、東京市本郷区曙町の自宅で静かに逝った。享年80歳だった。
桜井が望んだ理化学研究所創設の精神は、後進の科学者たちに継承されていった。そして理化学研究所は、各種ビタミン剤や人造酒の開発に成功するなど、様々な画期的な製品を世に送り出していった。そのひとつに、桜井の実子・桜井季雄(としお)が開発した発明品がある。
理化学研究所で有機化合物の光反応の研究をしていた桜井季雄は、昭和2年、紫紺色陽画感光紙の開発に成功した。季雄はこれよって、日・英・独・米・カナダの5カ国の特許を取得し、合わせて理学博士の称号も得た。そして、この感光紙は「理研感光紙」として売り出され、大ヒット商品となったのである。
その後、理化学研究所は、平成15年10月に独立行政法人として改組され、野依良治初代理事長に引き継がれた。
振り返って、わが国の化学界は、福井謙一に始まり、白川英樹や野依良治、田中耕一など、多くのノーベル賞受賞者を輩出した。その土台となる、自由で創造的な理科教育と研究環境の充実に取り組んだ桜井の功績は、極めて大きい。日本の化学界の礎を築き、後進の育成のために確かな布石を敷いた桜井錠二をもって、「日本の近代化学の父」と呼ぶゆえんである。
写真資料提供 : 石川県立歴史博物館/金沢市立ふるさと偉人館
[2008年9月9日 公開]
[FUJITSU飛翔 No.50(2003年11月刊)より転載]
著者プロフィール
- 上山 明博(うえやま あきひろ)
- 1955年生まれ。サイエンス・ライター。科学と文学の垣根を越え、広範な分野で執筆活動を展開。主な著書に『プロパテント・ウォーズ』『科学を愛したサル』『アトムの時代』などがある。
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