Fujitsu The Possibilities are Infinite

 

日本の近代化学の父 桜井錠二

欧米の科学技術の模倣に懸命だった明治期。
その実学最優先の時代の中で、理学の創造的な探究に取り組みつづけた化学者がいる。
わが国初の理学博士、桜井錠二(さくらい じょうじ)である。
多くのノーベル賞受賞者を輩出している日本の化学界の土台を築き、後進の育成に確かな布石を敷いた桜井の夢と情熱の足跡をたどる。

家運再興を賭けて母とめざした新都・東京

石川県金沢市東山三丁目。浅野川にほど近い閑静なこの地の路傍に、一本の顕彰碑が建っている。石碑には「桜井錠二先生誕生之地」と刻まれ、その横に、彼の偉業を記すプレートが掲げられている。

桜井錠二(さくらい じょうじ)。彼は、安政5(1858)年8月18日、加賀藩士で乗馬役を務める桜井甚太郎の六男として、加賀藩金沢馬場一番丁(現在の石川県金沢市東山三丁目)に生まれ、幼名を錠五郎(のちに錠二と改名)といった。なお、六男で錠五郎と命名したのは、長男が夭折(ようせつ)したためと思われる。

錠五郎が4歳のとき、父・甚太郎が48歳の若さで突然病死する。一家の長を失い、家計が貧窮するなか、母・八百は気丈にも、家運の再興のためには子供の教育を何より最優先しなければ……、との信念のもと、寝食を惜しんで内職に励み、子供の教育に努めた。なかでも英語の教育にとりわけ力を注ぐのだった。

幕末から明治維新にかけてのこのとき、英語の必要性をいち早く察知した八百の先見の明が、錠五郎が長じてのち、世界に誇る日本人化学者・桜井錠二を生む起因となったことは確かだろう。

明治3(1870)年、錠五郎11歳のとき藩立英学所の致遠館に入学。選ばれて七尾語学所でイギリス人オズボーンから直接ネイティブ英語を学んだ。

翌年、大学南校(のちの東京帝国大学理科大学)を受験し、合格の知らせを受ける。このとき八百は、錠五郎とともに上京する決心をする。無論、親戚一同は猛反対した。だが、その反対を押しきり、先祖伝来の土地と家屋敷すべて売り払い、母と子は、なんと徒歩でご一新の嵐が吹き荒れる新都・東京をめざしたのである。

秀才の誉れ高き日本人初の理学博士

大学で錠五郎は化学を専攻し、お雇いイギリス人のアトキンソン教授から化学全般について学ぶ。そして、入学の4年後、教育熱心な母の期待に見事こたえて、官費留学生に抜擢される。

明治9年6月25日、留学生を乗せた蒸気船は横浜港を出航した。太平洋を横断し、独立100周年を祝うアメリカ大陸を経由して、イギリスの首都ロンドンの港に到着したのは2カ月後の同年8月18日。その日は、奇しくも錠五郎が満18歳の誕生日であった。

錠五郎がイギリスで最初に行ったのは、「錠二」に改名したことだ。錠五郎は、イギリス人が呼びやすいように錠二(ジョージ)を名乗り、帰国後も桜井錠二としたのである。

錠二は、留学先のロンドン大学で化学者ウィリアムスン博士に学んだ。錠二の成績はここでも群を抜き、第一学年末の化学試験で100人以上の中で一番の成績を収め、主席金メダルを授受。翌年の化学・物理学共同試験でも一番の成績で、ロンドン大学奨学金が贈られた。

こうして、5年間のイギリス留学を終えて帰朝。洋行帰りの誉れ高き秀才・錠二は、翌年満24歳の若さで、東京帝国大学で日本人初の化学教授に就任する。さらに明治21年には、日本人初の理学博士の学位が授与された。

錠二の専門は、有機化学。その研究者としての成果のひとつに、帰朝翌年の明治25年、英国化学会誌に発表した「溶質分子量決定のための沸点上昇法の改良」と題する論文で提唱した「桜井沸点測定法」がある。

問題の「桜井沸点測定法」とは何か。それを説明するために、まず「沸点上昇法」について説明しなければならない。〈溶媒の沸点上昇〉と〈溶質の分子量〉との間にはある関係が存在する。その関係を利用して分子量を測定する方法を「沸点上昇法」という。しかしこの方法では、沸騰溶液の温度を一定に保つことができないなどの理由から、沸点の精密測定はほぼ不可能に近かった。

錠二はこの不可能に挑戦し、沸騰溶液中に溶媒の蒸気を通すことなどによって、小型・高精度で操作性に優れた画期的な測定装置を考案したのである。この方法は、化学者の間では「桜井沸点測定法」と呼ばれ、化学研究の向上に大きく貢献するものとして、世界的な注目を集めたのである。

真に創造的な理科教育のあり方を求めて

桜井錠二の履歴を振り返ると、東京化学会会長、東京帝国大学理科大学学長、理化学研究所副所長、帝国学士院院長、東京女学館館長、日本学術振興会理事長、勅選貴族院議員、枢密顧問官など、実に様々な要職を歴任している。それは、彼がこれまで記したような化学者としての業績だけでなく、理科教育や科学行政などの分野でも、まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をしたことを示している。

一化学者としての研究以上に、日本の化学の礎を築き、その後の日本の化学の方向性を大きく指し示したところに、実は桜井の最大の功績があるといってよい。具体的には、理科教育の改革と、後進の化学者のための研究環境の整備である。

まず、前者の理科教育の改革から述べよう。当時日本の科学界は、欧米の模倣に終始していた。桜井は、そうした目先の成果を求める実学最優先の研究のあり方に警鐘を鳴らし、理学の探究にこそ、科学者の真価があると指摘する。その主張は雑誌に寄稿した「理学者の快楽」と題する論文でも知ることができる。
「理学研究の事は、観察実験及び推察の法に依(より)て之(こ)れを行ふものなるが其困難実に大なりとす。然(しか)れども、一度この困難に打勝ちて一つの研究を仕遂るに於ては、其快楽も亦(ま)た実に大なりとす。而(しこう)して、其美味実に忘るる能わず。此れによりて益々勇気を得。尚(なお)進んで他の研究に従事し、一層大なる困難に打勝んとするの念を生ず。而して、其困難益々大にして之れより得るところの快楽も亦た益々大なりとす。重大なる発見は、皆な之を求めんとして得たるものにあらず。真理を恋慕し、且(か)つ之を敬愛するの赤心より生じたるものにして、偶然の出来事と言て可なり」(『東洋学芸雑誌』明治16年)

こうした理想の理学者を育成するために、桜井は大学のカリキュラムに微積分や物理学などを採用する。また講義に物理化学を導入するなど、自然の中に隠された法則性を探究する指導に務め、多くの有能な門下生たちを輩出した。

また桜井の教育改革は、大学だけにとどまらなかった。たとえば、尋常小学校ではこれまで実験は行われなかったが、初めて理科実験を採用した。また尋常中学校では、定比例の法則からアボガドロの仮説までを網羅。さらに高等中学校では、熱化学についても教えることとした。

桜井のこうした小学校から大学までの一貫した教育改革。その目的は、記憶力や計算能力を競うのではなく、実験を通して自然界に潜む法則を発見する喜びを体験することに重きを置いた点にあるのは明らかだ。なかんずく、実学偏重の学習から、理学を探究する楽しみに主眼を置いたことは、児童の基礎学力の向上を図り、ひいては日本の基礎科学の向上につながるものとして注目に値する。

加えて、桜井は女子教育にも並々ならぬ力を注いでいる。たとえば明治19年、伊藤博文や渋沢栄一らと共同で、「女子教育奨励会」を発足させた。同会規則の第一条に、その目的をこう記している。「本会の目的は、日本の貴婦人に欧米諸国の貴婦人と同等なる佳良の教育及び家事の訓練を受けしむるにあり」

さらに桜井は、東京女学館の創立・運営にも関わった。のちに東京女学館の館長に就任した彼は、その就任挨拶で、今は亡き母・八百の苦労を回想し、その恩に報いるようにこう語っている。
「わが国人口の大半は女子であり、女子の大多数が主婦となって家政を掌(つかさど)り、母となって子女の教養に当るべきことを想い、更に母の性格や修養が其の子女を感化し、延(し)いては、一般国民性の上に影響することが如何(いか)に大なることか想いますとき、女子教育は男子教育よりも却(かえ)って一層大切であると考えることが出来るのであります」(金沢市立ふるさと偉人館編『桜井錠二』)

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