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心臓が動く謎に挑んだペースメーカーの父 田原 淳

心臓を動かすのは神経か、筋肉か?

心臓を何千枚もの薄い切片にして、心筋細胞を観察していたある日のこと、淳は、心臓のほぼ中央、心房と心室との間に特殊な心筋線維が存在することを発見する。淳はこれを“房室結節”と名付けた。「もしかしたらこの房室結節が、心臓が自動的に動く謎を解く鍵になるかもしれない」という予感が淳の脳裏をよぎったに違いない。

当時、心臓が動く理由はいまだ解明されない謎として存在し、その問題をめぐって、医学界では“神経原説”と“筋原説”の両陣営に分かれて論戦が繰り広げられていた。前者の神経原説は、「神経が毎回命令を出して心臓を動かしている」とする考えだ。ところが、心臓が頭部と切り離されてもなお自動拍動することが確認されると、今度は「神経とは関係なく筋肉が自動的に心臓を動かしている」とする説が提出された。それが、後者の“筋原説”である。

神経原説と筋原説の間で、激しい論争が繰り広げられていたちょうどその頃、房室結節を発見した淳が、「房室結節にこそ、心臓が自動鼓動する鍵があるのではないか」と疑いを抱いても不思議ではない。

そして、この房室結節がどの部位と繋がり、何の働きをするかを最後まで突き止めたいという願望を抱くのだった。このときすでに淳には、世紀の大発見に繋がるという予感が少なからずあっただろう。しかし、それを行うためには、上司であるアショフ教授の許可を得なければならない。心筋炎の病理解剖学的解明という、当初アショフから与えられた研究課題を休止し、房室結節の研究に本格的に着手することを当のアショフに認めてもらう必要があった。

そのため、淳はアショフ教授宛に長文の手紙をしたためる。その手紙の前半部では、これまでの養父の恩に報いるためにも、立派な研究成果をあげなければ帰国できない、という思いを切々と訴えた。そのうえで、当初与えられた課題を一旦休止し、自分が見付けた房室結節の研究を新たに始めたい、という主旨の言葉で結んだ。

心臓が規則正しく鼓動するシステムを世界で初めて解明

手紙を受け取ったアショフは、田原の懇願をふたつ返事で快諾。かくして田原は、心臓学の本格的な研究を開始した。

しばらくして、房室結節は1893年にヒス(His, Wilhelm Junior)が発見した“ヒス束”に繋がっていることを確認する。さらに、1845年にプルキンエ(Purkinje, J.E.)が発見した樹木状の“プルキンエ線維”に達することを突き止める。そして淳は、房室結節からヒス束を経由し、プルキンエ線維に至る一連の心筋組織こそ、心臓が自動的に拍動する“刺激伝導系”であると結論した。さらには、詳細な観察スケッチを添えて200ページにもおよぶ論文を書き上げ、1906年、『Das Reitzleitungssystem des Saugetierherzens(哺乳動物心臓の刺激伝導系)』というタイトルの著書を上梓した。

この本の中で淳は、私たちの心臓は、神経系とは別に、房室結節→ヒス束→プルキンエ線維に至る“刺激伝導系(Reitzleitungssystem)”をもち、この独自の刺激伝導系が、心臓の規則正しい自動鼓動をコントロールしていることを明らかにした。

かくして、田原淳が導出した心臓刺激伝導系の発見によって、神経原説と筋原説の激しい論戦は終止符を打った。学界でこれまで主流であった神経原説は誤りであり、筋原説が正しいということが証明されたのである。

わずか3年半のドイツでの研究期間の間に、淳は、心臓がなぜ動くのかという、生命の本質的な謎に挑戦し、心臓刺激伝導系の全容を世界で初めて解明した。そして論文発表の4か月後の明治39(1906)年8月、世界の医学界に大きな衝撃を与えた日本人病理学者は、もと来た路をたどり、同じ備後丸で帰朝の途につくのだった。

研究以外は目もくれない几帳面で生真面目な性格

帰国後は、京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)の助教授となり、翌年35歳にして教授に就任する。

田原教授の生活は、心臓の拍動と同様に規則正しかった。福岡城近くの薬研町(現・福岡市天神二丁目)にあった自宅を毎朝定時に出て、午前8時には研究室に着き、まだ誰もいない部屋を実験器具を見ながら巡回した。

また、病理標本を前にして学生達に説明する講義では、まさに微に入り細をうがって解説し、「結局何を言っているのかわからない」と感じる学生も少なくなかった。それは、病気特有の所見は標本によって一様ではないためだ。くわえて、標本に見られるすべての事象を説明しなければ気がすまない、という田原の気質に因るところも少なくない。

いっぽう昼食は、院内食堂の店屋物で、ある年は一年中親子丼、その翌年はハヤシライス、とメニューは年替わりで、一年間毎日同じものを食していたと、当時の学生は証言する。

几帳面で生真面目で、研究以外には何事も気にしない性格だったようだ。畢竟(ひっきょう)、毎日根気の入る研究をつづけ、普通なら見逃してしまうような小さな変化を見逃さなかったからこそ、前人未踏の心臓刺激伝導系の大発見をなしえた、とも言えるのである。

晩年の田原淳は、中津の家で静かに余生を過ごした。楽しみは、家の畑で野菜やイモを育てることだった。その畑を一見すると、他の農家とは明らかに違っていた。几帳面な性格ゆえか、畑の畝(うね)の高さや間隔などはすべて定規で正確に測り、種を蒔く際は解剖で使うピンセットを用いた。常識を逸脱した極めて緻密な作業は、周囲の者を呆れさせたが、手間をかけた分だけ多く収穫することができたという。

昭和27(1952)年1月9日、田原淳は眠るように他界した。享年78。遺体は献体され、翌10日、生前メスを片手に講義した九州大学病理学教室で、後進たちの手によって解剖された。

田原博士の心臓刺激伝導系の発見を契機に、その後、心電図診断が確立し、不整脈や狭心症、心筋梗塞など、様々な心臓病の早期発見が可能になった。また、ペースメーカーの開発によって、いまや毎年何万人もの人命が救われている。惜しむらくは、今日隆盛を極めるこれらの技術が実用化するのを見届けることなく、逝去したことである。

医学の新しい歴史を拓く画期的な研究を行い、今日の心臓学の礎を築く偉業を成し遂げた研究者の名は、彼が通った九州大学病院地区キャンパスに田原通りとして残されている。

また、心臓刺激伝導系の全容解明の端緒となった房室結節は、ヒス束やプルキンエ線維と同様、その発見者の名前を冠して、“田原結節(Tawara node)”と呼ばれている。

取材協力 : 須磨幸蔵(東京女子医科大学名誉教授、医療法人社団成和会介護老人保健施設「むくげのいえ」施設長)
写真提供 : 須磨幸蔵、ミクロスコピア出版会
参考文献 : 須磨幸蔵・島田宗洋・島田達生編著『世界の心臓学を拓いた 田原淳の生涯』ミクロスコピア出版会・2003年/須磨幸蔵『ペースメーカーの父・田原淳』梓書院・2005年

[2008年8月19日 公開]
[FUJITSU飛翔 No.54(2005年7月刊)より転載]

著者プロフィール

上山 明博(うえやま あきひろ)
1955年生まれ。サイエンスライター。特許庁産業財産権副読本策定普及委員会委員などを務める。著書に『プロパテント・ウォーズ』『発明立国ニッポンの肖像』(ともに文春新書)などがある。

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