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心臓が動く謎に挑んだペースメーカーの父 田原 淳

心臓のほぼ中央に“田原結節”と呼ばれる部位がある。
病理学者の田原 淳(たわら すなお)にちなんだ命名である。
田原は、この田原結節をはじめとする刺激伝導系の発見によって、心臓が自動拍動するメカニズムを解明した。それがなければ、今日の心電図診断やペースメーカー治療は実現できなかった。
近代心臓学の礎を築いた世界的偉業を振り返る。

心臓学を拓いた知られざる偉業

現代人にとって大きな関心事のひとつに挙げられる心臓の病。心電図診断やペースメーカー治療など、その治療法はめざましい発展を遂げ、日本国内だけでも毎年数万人もの患者にペースメーカーが埋め込まれている。こうした今日の心臓学の基礎を築いたのが、病理学者の田原淳(たわら すなお)である。

田原淳の業績は、北里柴三郎や野口英世など、ほぼ同時代に活躍した医学者と比べても、優りこそすれ、決して劣らない。だが、北里や野口が当時から英雄視され、多くの偉人伝が刊行されたのに対して、田原の名は一般にほとんど知られていない。その理由のひとつに、北里や野口が、当時世界の最先端の研究テーマとして耳目を集める細菌学の研究に取り組んだのに対し、田原が取り組んだ病理解剖学は、細菌学にくらべると、古典的な研究と見なされたことがある。

田原の研究からおよそ一世紀を経て、心臓学が隆盛を極める今日、その歴史を拓いた彼の研究人生を振り返ってみたい。偉業を正当に評価するためにも--。

身代を投げ打つ覚悟で私費留学させた養父

田原淳は、明治6(1873)年7月5日、大分県東国東(ひがしくにさき)郡西安岐(にしあき)村瀬戸田(せとだ)(現・安岐町大字瀬戸田)で代々庄屋を務める中嶋家(父・定雄、母・サイ)の長男として生まれた。

淳の才能を見込んだ両親は、豊前中津で開業医を営む田原春塘(しゅんとう)、貞(さだ/サイの妹)夫婦と相談し、淳を田原家の養子とし、その将来を託した。ときに明治25年、淳19歳のことである。

以後、田原淳は養父・田原春塘から精神的にも経済的にも全面的な支援を得る。さっそく淳は、勉学のために帝都・東京に上る。このとき春塘は「修学中は碁や将棋などの遊びごとは一切やめて、一生懸命に勉強しなさい」と助言し、励ましている。そして明治27年、淳は第一高等学校に進学。その後、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)に入学し、明治34年に卒業する。

普通なら中津に帰郷し、養父の家業を継ぐところだが、淳の研究への熱意と、それに応える春塘の気持ちがひとつになり、淳はさらに海外に遊学する。

明治36(1903)年1月10日、田原淳を乗せた貨客船・備後丸は、横浜港を離岸し、一路地中海を目指した。香港、シンガポール、コロンボを経由し、スエズ運河を通ってマルセイユ港に到着したのは40日後のことである。

この間の航海の片道にかかる運賃は、一等450円、二等は310円。「1,000円もあれば家一軒建つ」と言われた当時の物価を勘案すると、私費留学がいかに大金を要する一大事だったかがわかる。春塘はその費用を工面するために、まさに身代を投げ打つ覚悟で、全面的に支援した。この養父の私財を投じた協力がなければ、世界に誇る病理学者・田原淳の存在はなく、淳は市井の医師として、その生涯を終えたはずである。

ドイツ医学界で主流の学説を丹念な観察の末に否定

マルセイユから鉄路ドイツに向かった淳は、友人のつてを頼ってマールブルグ大学病理学教室の門を叩き、ルートヴィヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)教授の指導を請う。そして、アショフ教授の指導のもと、わずか3年余りの間に近代心臓学の歴史を拓く世紀の大発見をするのである。

その端緒は、アショフ教授の「淳くん、クレール教授の新説を確かめてくれないか」の一言だった。

その頃、ライプチヒ大学のL・クレール教授らが提出した新説がドイツの医学界で話題となり、多くの学者に支持されていた。それは、肥大した心臓の多くが心不全を起こす原因は、心筋細胞と心筋細胞の間の結合組織の炎症に求められる、とするもので、当時斯界(しかい)では“関質性心筋炎説”と呼ばれた。アショフ教授は淳に、関質性心筋炎説が正しいことを、病理解剖から得られた100以上もの心臓標本を用いて検証するよう依頼したのだ。

さっそく淳は、アルコールに漬けられた心臓を取り出し、それを厚さ約10マイクロメートル(マイクロ“μ”は100万分の1)の薄い切片に慎重に切り分けた。そして、来る日も来る日も光学顕微鏡で一つひとつ丁寧に観察していった。

ところが、心臓の切片をいくら注意深く観察しても、細胞と細胞の間の結合組織に炎症は認められない。さらに淳は、根気よく観察した。だが、細胞に見かけ上の変形は認められたものの、炎症はついに認めることはできなかった。そして淳は、誰もが疑わなかった関質性心筋炎説は、じつは誤りである、と結論づけたのである。

ドイツの医学界で主流であった学説を、極東からやって来たばかりの淳は、丹念に観察した末に、躊躇することなく否定した。その背景には、既成概念に捕われず、生命の不思議を真正面から捉えようとする真摯な研究姿勢があった。そして、この検証が、のちに世紀の大発見に結びつく。

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