世界初の渦巻蚊取線香の発明者 上山英一郎

古来、蚊は人類の宿敵だった。
どこからともなく湧いてきて人畜の血液を吸い、マラリヤの病原体や日本脳炎のウイルスを媒介する。
この厄介な蚊から身を守ってくれるのが蚊取線香だ。
渦巻型という希有なアイディアで、蚊の“天敵”を発明し殺虫剤産業の祖となったのが、蜜柑貿易に夢を馳せた上山英一郎だった。
「商傑」と呼ばれた男の執念と知恵が傑作を生んだ。
蚊取線香に詰め込まれた抜きんでた知恵と工夫
平安中期の才媛・清少納言は、その著『枕草子』でこう書いた。
「ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声(ほそごえ)にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。羽風さえ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ」
夏の夜、そろそろ寝るかと毛布にくるまった途端、顔のあたりを「プーン」と飛び回る一匹の蚊。清少納言ならずとも「いと憎し」である。だが、この小さな虫が「人に仇なす」とあっては、そうそう悠長なことも言っておれない。
『万葉集』にも「蚊火(かび)」の語が出てくるが、人間と蚊の果てしなきデスマッチに終止符を打ったのが、明治時代の半ばに登場した蚊取線香である。この蚊取線香を発明したのが上山英一郎(うえやま えいいちろう)、大日本除虫菊株式会社の創業者だ。
日本人の生活に溶け込み、夏の風物詩となっている蚊取線香。普段、気にとめることもない小さな商品だが、そこには抜きんでた知恵と工夫が詰まっている。
なぜ、渦巻型なのか。蚊取線香が二本でセットになっているのも、考えてみれば不思議である。
独創的発想で、わが国の家庭用殺虫剤産業に先鞭をつけた上山英一郎は、モノづくりの人だ。いち早く除虫菊の効能に着目して、苦心惨憺、その栽培普及に飛び回ったオリジナリティは、「明治」という時代の気分と無縁ではなかった。
この植物を栽培して巨万の富を得た人がいる
生まれは文久2(1862)年。和歌山県の海岸線、有田郡山田原(現・有田市)の蜜柑農家の七男である。世の中は幕末から維新にかけ、風雲、急を告げていた。英一郎は幼くして俊英の誉れが高く、長じて後、「文明開化の嵐」が吹き荒れる東京に出る。
「人と人の出会いが運命を変える」と言うが、英一郎がそうだった。
一つは、東京で慶応義塾に学び、福沢諭吉に海外への目を開かされたことだ。諭吉はこれからの時代、「理財」、すなわち財の理屈、経済学が重要になることを説いた。その薫陶を得た英一郎は、郷里に帰ると一念発起(ほっき)、蜜柑を世界に輸出する遠大な計画を思いつく。
「殖産興業海外輸出をなすを最高の職務と思惟せり」と英一郎は書いている。だが、有田はまだ片田舎。そこで世界を相手に蜜柑貿易をやろうという発想はスケールが大きい。
英一郎は直ちに上山商店を設立し、自ら店長に収まる。明治18(1885)年、22歳だった。
同じ頃、もう一つの出会いがある。諭吉のツテで、サンフランシスコで植物会社を経営するH・E・アモアを知ったのだ。この時、英一郎はアモアを自分の柑橘園に案内し、蜜柑と一緒に苗を渡している。
この縁で今度はアモアから色々な種類の植物のタネが送られてきた。その中の一つの袋に、こんな注意書きがあった。「アメリカではこの植物を栽培して巨万の富を得た人が多い」
これがインセクト・フラワー、日本名ではシロバナムシヨケギク、除虫菊のタネだった。
除虫菊が日本に入ってきたのは、この時が最初ではない。内務省衛生局の薬草園や東大の農園で栽培され、農務省も勧業員と呼ばれる地方役員を介して、栽培を奨励していた。マーガレットによく似た白い花をもつ除虫菊は、ユーゴスラビア(現・セルビア共和国)が原産地で、14、5世紀に発見されたと言われる。元々は鑑賞用だったが、ある時、捨てられた除虫菊の回りで、何匹も昆虫が死んでいるのが見つかり、この花に殺虫効果のあることがわかる。
花の子房に含まれるピレトリンが、昆虫駆除に有効なことはまだ掴めなかったろうが、これがアメリカに伝わり、明治時代になって日本に伝来した。だが、役人の怠慢はいつの世も変わらないとみえて、この時は広く栽培されるには至らない。しかし、英一郎にはその”秘めた価値”がピンときた。
ここから運命が大きく変わる。
除虫菊の粉を線香にしたらどうか
「農界の最も恐るべきは、昆虫の害にして、古来虫害のために飢饉を来したる例甚(はなは)だ多し」と、英一郎は自著『除虫菊栽培書』に書く。そして、こう強調した。
「本草を農家の間作(かんさく)とし、家々之が栽培に従事し大いに産額を増殖し……一郷一家(いっきょういっか)の利益を得るのみならず」
実際、全国を飛び回って栽培を呼びかけ、講演に明け暮れた。交通の便もままならぬ時代、苦労も並大抵ではなかったが、これも除虫菊を日本の特産品にして輸出すれば「富国」に貢献できると考えたからである。
「ペテン師じゃないか」と疎まれたことも一再ならず。だが、そんなことにはヘコたれない。タネを無料で配付し、明治23(1900)年の第3回内国勧業博覧会には除虫菊を出品。「除虫菊種分与す」と新聞広告も出した。
当時、除虫菊は、乾燥した花を粉末にし、主にノミとり粉として使用されている。しかし、これだともう一つ、効果が薄い。水田を襲うウンカの大群を倒し、蚊を駆除するのに、粉状では十分に殺虫力を発揮できないのだ。
もっと有効に除虫菊を使う方法はないかと、英一郎は知恵を絞る。ここでも活路を開いたのは閃きである。
かつて日本では「蚊遣り火」が使われていた。松やよもぎの葉、カヤの木を火にくべ煙をくゆらせて蚊を撃退するものだ。江戸時代の儒学者にして博物学者でもあった貝原益軒(かいばら えきけん)は「ウナギの干物や骨をいぶすと蚊の体が溶けて水になる」と書いたが、その真偽はともかく、いずれも蚊を殺すより、煙で追い払う程度の効果しかない。
それも家の中が煙だらけになるくらい立ち込める必要があった。蚊には刺されなくても、ただならぬ煙たさに耐えなければならないわけだ。
しかし、煙が苦手な蚊ならば、除虫菊の粉を火鉢や香炉の灰にまぶしたらどうだろう? 実際にやってみると、蚊がポトリと落ちる。「これはいける!」と英一郎は胸をはやらせた。
殺虫成分のピレトリンに、熱で揮散する特徴があったからだ。だが、「夏に火鉢」は気がきかない。英一郎は考えた。苦悩しながら浮かんだのが、除虫菊の粉を線香にするという卓抜な発想である。そのヒントを与えてくれたのも、人との出会いだった。
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