エコロジーの先駆者 本多静六
近代洋風公園の先駆 「日比谷公園」の設計
本多が日比谷公園の設計にかかわったのは唐突な出来事であった。彼はドイツ留学中も、造園を専門的に研究したり、実際に公園を設計した経験もなかったからである。
本多の著書によると、明治32(1899)年頃、わが国建築学界の第一人者であった辰野金吾博士は、日比谷公園の設計を東京市から依頼されて、「建物の設計ならいざ知らず、公園の設計はね……」と日々苦慮していたという。
博士がたまたま本多と話す機会があったとき、公園設計に話が及んだのは、不思議な巡り合わせであった。博士はこの仕事から早く解放されたいと願う一心で若い本多を説得し、有無を言わせず、彼を東京市長に推薦してしまった。本多は大きな不安を抱えた。だが、30代の若い教授は、これは自分の名を社会に知ってもらう絶好の機会ととらえ、名利を蓄える方が不安に勝ったのである。
当時、わが国には和風庭園の庭師は少なくなかったが、洋風公園を設計施工できる専門家はいなかった。そのためつぎつぎ提出される設計案はいずれも却下される有様であった。
幸いにもドイツの公園をモデルにした本多の設計案は市議会で承認された。彼は施工の現場に立って、人夫たちの陣頭指揮にあたった。倒木寸前だった公園用地近くの巨樹を救った「首かけイチョウ」(注1)の移植はその実例の一つである。このような態度は、象牙の塔に立て籠る学者先生には到底真似できない。実学を重んじ、人生即努力を人生訓として生きた本多の面目躍如たるものがある。
明治36(1903)年6月2日、日比谷公園の誕生は、ドイツ各地の公園の模倣にせよ、わが国における近代洋風公園の先駆として、日本公園史上画期的な出来事であった。当日の各新聞社の記事は、初めて見る洋風公園を大方好意的に受け入れ、設計施工にあたった委員各位の労をねぎらっている。
日比谷公園の設計施工の指導的役割を終わらせた本多は、造園の分野においても一家言をもつ人物として処遇された。その後も国内各地から公園設計の依頼が相次いだ。本多が手がけた公園は70余箇所にも達する。
人手をかけない〈自然の森〉を実現させた人工林「明治神宮の森」
明治神宮の森は、自然林を切り開いて造ったと思っている世人が少なくないようであるが、これは大都会の真中に造った紛れもない人工林なのである。
大正4(1915)年に発足した「明治神宮造営局」の神宮の森づくりには、川瀬善太郎、本多静六、原熈(はら ひろし)の三人の東大教授が参与として、さらに本多の愛弟子である本郷高徳が技師、同じく上原敬二は技手として参加し、現場の第一線の監督指揮にあたった。
本多らは神社林の理想として、以前から仁徳天皇の御陵を想定していた。仁徳陵(にんとくりょう)は人手を加えた記録はほとんどなく、陵内は密林状態の原生林、すなわち極相状態の林相を維持している。本多らはこれこそが理想の神社林であると確信した。ひとたび植栽すれば、その後は人手を入れなくても自然更新して、林相を維持できるようにする。本多らが考えた神宮の森の理想像は、いうなれば「自然の森」である。百年後には人工の森が自然の森と見紛うほどの林相になり、しかも永遠に存続する森をつくることであった。
このために、カシ、シイ、クスなどの陰樹を主木(しゅぼく)とし、その下にイヌツゲ、ネズミモチ、トベラなどの常緑樹を混植して、百年後には、カシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹が支配する天然林相になる計画が、本郷高徳らを中心に進められた。しかし、全域にこれら常緑樹を植えるのは困難なので、永年かけて理想的な林相に次第に遷移するよう、次のような計画が立てられた。
第一代の森は、既存のマツ類を主木とし、その間にヒノキ、スギ、モミなどの針葉樹を植え、さらに、将来主木となるであろうカシ、シイ、クスなどの小苗木を植える。第二代の森は、主木であったマツ類がヒノキ、スギなどに負けて枯死し、主木は交代する。第三代の森は、カシ、シイ、クスなどが生長して支配木となる。これらの常緑樹の種子は地上に落ちて発芽し、生長して、いずれは母樹と交代する。こうして、森林は永続することになる。
このような植栽計画が発表されると、反対や新提案が続々寄せられた。なかでも時の総理大臣大隈重信の反対意見は厳しかった。彼は神宮の森を伊勢神宮や東照宮のようなスギ林にすべしと強硬であった。しかし、樹幹解析法(じゅかんかいせきほう)(注2)の結果を示して、しぶしぶ承知させた。
この計画の賛成者の一人、当時の宮内庁の山口鋭之助(やまぐち えいのすけ)博士は、「神宮の森の完成後は、樹林内に人を入れないこと、落葉をはき集めたり、焼き捨てることなく、自然状態に溜めおくこと」を強く要望し、本多ら関係者を喜ばせた。
90余年後の今日、神宮の森をみると、第三世代の林相がほぼ予想通り実現している。森林生態学に裏打ちされた計画で進めた神宮の森づくりは、遷移理論通り見事に成功した。神宮の森の特徴は、欧州の都市林よりも樹種が豊富で、常緑樹と落葉樹、針葉樹と広葉樹を混植し、すぐれた都市林の景観を達成したことにある。神宮の森の設計施工にあたった大勢の人々の衆知と先見性に、改めて畏敬の念を深くする。
(注1) 首かけイチョウ : 日比谷通りの拡幅にあたって日比谷交差点近くの大イチョウが切り倒されることを知った本多は、公園の設計と樹木の収集に苦心している最中に公園用地の目の前にある老樹を伐採するとは何事かと激怒した。そこで東京市参事会議長の星亨にかけあって倒木の中止を懇請し、自分が移植を引き受けたいと申し出た。星は植木職人でさえ巨木の移植は無理だと言っていると難色を示したが、本多はみずからの首をかけて移植してみせると太鼓判を押した。本多は公園内にレールを敷き、約450メートルを25日間かけて、現在の松本楼のそばまで運び、移植に成功した。
(注2) 樹幹解析法(じゅかんかいせきほう) : 樹幹(じゅかん)の断面を造り、樹齢、樹高、直径などの値を求め、図面に表して他の幹と比較する方法。本多は日光と代々木のスギからそれぞれ幹の切り口を造って、年輪の成長過程から代々木のスギの成長の悪さを明らかにし、いかにこの土地がスギの生育に適していないかを示して大隈重信を説得した。
写真提供 : 遠山 益
[2008年7月8日 公開]
[FUJITSU飛翔 No.58(2007年7月刊)より転載]
著者プロフィール
- 遠山 益(とおやま すすむ)
- 1930年生まれ。お茶の水女子大学名誉教授。専門は生物学。主な著書に『本多静六 日本の森林を育てた人』(実業之日本社)『生命科学史』『図説 生物の世界』『人間環境学』(以上、裳華房)など。
- 日本人のオリジナリティ探訪(一覧)
- 世界初の渦巻蚊取線香の発明者 上山英一郎
- エコロジーの先駆者 本多静六
- 世界に知られた竜巻博士 藤田哲也
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