Fujitsu The Possibilities are Infinite

 

エコロジーの先駆者 本多静六

明治神宮の森の旧道を歩くと、うっそうとした樹影(じゅえい)に鳥のさえずりだけがきこえ、とても大都会の真中にいるとは思えない。
だが、この森は自然林を切り開いたのではなく、紛れもない人工林だ。
一度植栽すれば、その後は人手をかけなくても自然更新し、林相を維持して永続するように造られている。
森林生態学に裏打ちされた計画は90余年後の今日、ほぼ予想通り実現した。造林計画策定の中核にいたのが本多静六。
一般には「蓄財の神様」としてのみ名高いが、奥多摩水源林や日比谷公園をはじめ、日本の造林・造園を担った先駆者であった。

「蓄財の神様」の本業は造林・造園の専門家

この三年来、本多静六(せいろく)に関する本がたて続けに10冊刊行された。そのうち9冊は、本多自身の著作の復刊本であり、他の1冊は、小著『本多静六 日本の森林(もり)を育てた人』である。復刊ブームの理由の一つは、本多が死去して50数年がたち、著作権の保護期間が消滅したことによる。本多は生前300冊をこえる著作を発表した。そのうち復刊されたものは、『蓄財法』『生活流儀』『人生計画』『体験成功法』『自分を生かす法』などである。これらの著書は、蓄財の神様、人生成功の指南役といわれる本多が、人生85年の体験をもとに、現役を引退した後、社会に対するお礼奉公として、世のため人のために名利を越えて書いた本である。

これらの復刊本がマスコミの話題となり、ベストセラーになったのは、もう一つの理由があった。これらはどれも本多の実体験から生まれた人生哲学がにじみ出ている本である。単に蓄財や人生成功のノウハウに接するというだけでなく、本多の哲学、すなわち「人生即努力、努力即幸福」という人生訓に共鳴する読者が多かったのであろう。

なるほど、本多は巨万の富を蓄財した。しかし晩年、彼は資産のほとんどすべてを社会に還元し、子孫に美田を残すことはしなかった。功成り名遂げた晩年でも、彼の心身も日常生活も、一般庶民と何ら変わるところがなかった。このような本多の生き方にも、読者は共感するところが少なくないであろう。

復刊本の普及で、本多静六の名は世間に少し知られるようになったとはいえ、彼の知名度は特定の分野に限られている。

世間では、復刊本のような蓄財法や人生成功法などの人生相談が、本多の本業であったと思っている人が少なくない。だが、これらの著作はすべて本多が停年退官した後の余技である。彼の本業は東京帝国大学農科大学の教授で、造林学と造園学の研究者、また教育者として多くの子弟を指導した。

造林や造園は、まことに地味な泥と汗の臭いのしみ込んだ職業で、マスコミにはなやかに登場するような職種ではない。本来、国民の生活基盤を支える職業でありながら、造林や造園が市民社会とどんなかかわりをもっているかを、深く認識している人は少ない。

本多の膨大な社会貢献の業績をすべてここでは紹介できないので、「鉄道防雪林の創設」「水源林の育成」「日比谷公園の開設」「明治神宮の森づくり」の四例の骨子を述べ、造林造園が私たちの生活に深くかかわっている現実をみていきたい。

北国の発展に貢献した 鉄道防雪林の創設

半端でない苦学に耐えて、ミュンヘン大学から国家経済学の博士号を得て帰朝した本多を祝福し、土産話を聞く会を催してくれたのは、同郷の先輩、渋沢栄一であった。この席で本多は在欧中に見聞した吹雪防止林、雪崩防止林、さらに帰国途上視察したカナダ・パシフィック鉄道の防雪林などが、大きな効果をあげている様子を説明し、「わが国でも地吹雪対策の防雪林を造ってはいかがでしょうか」と提案した。渋沢は早速、本多の提案を日本鉄道の曽我祐準(すけのり)社長に伝えた。曽我の対応は素早かった。

こうして、本多は当時26歳の青年助教授であったが、鉄道防雪林創設という国家的事業を背負うことになった。以来、本多はみずから鉄道防雪林の策定と実施にあたり、生涯にわたり鉄道の保全と、関係者への指導助言に情熱を注いだ。

鉄道の雪害は強風による地吹雪によって、局所に雪が堆積するのが主な原因である。明治24(1891)年9月、東北本線は全通したが、当時東北地方の鉄道事情は、地吹雪による吹き溜まりに入った列車は立ち往生し、救援が来るまで何日も雪の中に閉じ込められる有様であった。

本多と愛弟子山田彦一の計画案によって、明治26(1893)年5月、一斉に造林が始められた。このときの造林場所は、水沢-厨川(くりやがわ)(岩手県)の間と、下田-小湊(青森県)の間。この造林には筆舌に尽くせぬ程の苦労を払ったにもかかわらず、その後約十年間は効果が現れず、本多をはじめ関係者は苦渋の日々を送った。この間も多額の除雪費の支払いが続けられた。

しかし、経年につれて樹木が成長し、防雪効果が顕著に認められ、高く評価されると、造林はさらに強化された。現在、わが国の鉄道防雪林の総延長は1,300キロメートル、面積は10,900ヘクタールに達し、世界有数の規模に成長している。東北・裏日本・北海道地方の鉄道がこの百年、人と物を輸送しただけでなく、新しい文化をも運んで北国の発展史に輝かしい一頁を残し得たのは、この鉄道林があったればこそといっても過言ではない。

昭和15(1940)年、野辺地(のへじ)駅構内のスギ林内に防雪原林(ぼうせつげんりん)の碑が建てられた。これは丈余の自然石を用いたもので、表面には当時74歳の本多の自筆になる「防雪原林」の大文字が、裏面にはその由来が刻まれている。

多額の負債を自弁して 日本最大の水源林を経営

明治30(1898)年秋頃から、本多は博士論文の資料を得るため、東京府奥多摩地域の森林の調査研究を続けていた。この地域の森林は徳川幕府直轄の「お止め山」として保護されてきたが、明治維新によって、この地は御料林(ごりょうりん)に編入され、地元住民は利用できなくなった。そのため地元では盗伐、乱伐、開墾、焼畑などが繰り返されて、「はげ山」同然になった。

この実状を憂慮した本多は、時の東京府知事千家尊福(せんげ たかとみ)に奥多摩水源地の荒廃を直訴した。本多は水源林経営の知識も経験もなかったが、東京府森林調査嘱託の辞令を受け、大学本務の傍ら、水源林経営の立案に着手した。

まず、水源地となっている御料林を買収する計画を立て、知事の代理として御料局と交渉し、8,200町歩の大水源地を超安値で買収することに成功した。

つぎに、買収地の雑木を伐採して、その跡地に植林することにしたが、伐採木の売却は困難であった。そこで本多は雑木を木炭にして売る作業を始めた。しかし、これら「学者の商法」は見事に失敗して、本多は多額の負債を負うことになった。その額は本多の大学年俸の3年分に相当したが、本多は全額自弁した。

伐採跡地の造林も試行錯誤の連続であった。1,000メートルの高地にスギ、ヒノキを植栽するには、皆伐を止めて、中小の雑木の間に植栽しなければ、苗木は生育できないことを知った。さらに、地ごしらえ、下刈りなどの育林作業が欠かせないことも分かった。これらの貴重な体験は「本多造林学」の基礎資料として生かされた。

本多が水源林経営に着手した頃、奥多摩町から塩山市にまたがる水源地21,000ヘクタールのうち、約5,000ヘクタールは「はげ山」であった。最初の造林は、この荒れた無立木地(むりゅうぼくち)へのヒノキ、カラマツなどの植栽であり、本多時代を通して1,220ヘクタールの造林を達成した。東京市に移管してからも植栽は続けられ、今日では「はげ山」は皆無となり、わが国最大の見事な水源林を造り上げた。

これは大勢の人びとの汗と力の結晶であるが、あえて代表者の名をあげれば、水源林の基盤をつくった本多静六、その後を引き継いで、水源林の拡充に尽力した尾崎行雄である。

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