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世界に知られた竜巻博士 藤田哲也

戦争の記憶も生々しい昭和28年の夏、アメリカに向かう旅客機の乗客に一人の理学博士がいた。
新妻と満1歳の長男を残し、わずかの金をポケットに、単身シカゴ大学におもむき、気象学の研究を始めるのだ。
やがて彼は、竜巻の構造の解明や、航空機事故の原因であったダウンバーストの発見などで、世界の気象学にその名を残す。
「ミスター・トルネード」藤田哲也博士のひたむきな研究人生。

竜巻の強さを表す世界標準の単位「F(フジタ)」の由来

地震の規模を表す単位は、周知の通り「M(マグニチュード)」である。1935年、アメリカの地震学者リヒターによって考案され、専門家の間ではリヒター・スケールと呼ばれている。

同様に、竜巻の強さは「F(フジタ)」で表されることも、広く世界中で知られている。だが、残念なことに日本ではあまり知られていないようだ。考案者の名は日本人気象学者、藤田哲也。竜巻の単位のFは、じつはドクター・フジタのイニシャルに由来するものなのである。

終戦の傷跡が色濃く残る昭和28年、30歳を過ぎ、妻子を残して単身アメリカに雄飛したひとりの日本人が、なぜ「F(フジタ)」スケールを考案し、どのようにして竜巻研究の世界的権威になったのか。そこには、それまでの常識に捕われず、まるで子供のように無垢な目で自然や人に向き合った日本人科学者の、ひた向きで一途な研究人生があった。

父に導かれた天文への興味、あいつぐ両親との死別

大正9(1920)年。福岡県企救郡曽根町(現・北九州市小倉南区中曽根)で、小学校の教員をしていた藤田友次郎と妻よしえの間に、待望の長男が誕生。哲也と命名された。長じてのちに渡米し、「ミスター・トルネード」と呼ばれる竜巻研究の第一人者となる。

父・友次郎は長男・哲也を連れて、近くの周防灘の干潟で遊び、干潮時には2キロ沖の間島(まじま)まで歩いて渡った。そんなある日、「潮の満ち引きは月と太陽の引力で起こるのだ」と父に言われて感心した哲也少年は、その言葉に触発されたように、天文学に興味を抱く。

旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高校)に入学した哲也は、天文学の興味に拍車がかかり、望遠鏡を自作して太陽の黒点の観測をおこなった。その研究の素晴らしさに目を丸くした教師たちは、哲也に、小倉中学校で初の理科賞を与えることにした。それが彼が受けた最初の賞だ。

しかし、息子に自然への興味を授けた父は、息子が初の栄誉を受けたわずか2カ月前に急死。その2年後には優しかった母も他界し、遺された幼い弟と妹、祖母の生活が20歳そこそこの哲也の背に一気にのしかかった。

旧制中学を卒業後、通常なら一家を支えるために職に就くところだ。しかし、抜きんでた哲也の才能を惜しんだ中学校の校長は、明治専門学校(現・九州工業大学)の校長に相談した。そして、特別のはからいで、明治専門学校物理教室の研究助手としてアルバイトしながら就学する「特別給費奨学生」として、同校の機械科に進学することになる。

もしもこのとき、両校長のはからいがなければ、世界的に知られるミスター・トルネードの存在はなかったにちがいない。

長崎の爆心地調査で発揮された創意工夫

昭和20(1945)年8月6日、広島に原子爆弾が投下。その3日後、原爆は長崎にも投下され、上空で炸裂した。

当時、明治専門学校を卒業し、同校の物理学助教授になっていた哲也は、原爆投下からわずか3週間後、長崎の爆心地に入り調査した。目的は、原爆が爆発した位置を正確に特定することだった。

彼は、ほとんどの建物が倒壊し、手掛かりがないなか、位置を変えずに現存するものを探し、墓石の前の竹の花筒に着目する。各地の墓地で竹筒に残る閃光の影を上空に向かって延長すると、ある一点で結ばれた。そして、爆発点は、長崎市浦上の爆心地の上空高度530メートル、と結論づけたのである。

哲也はこの調査結果を大学に報告するとともに、その調査方法について学生たちに語った。現場の状況を観察し、科学的な検証方法を自らの創意工夫で創造することの醍醐味と重要性を伝えたのだ。

このときの原爆調査が、のちにダウンバーストの発見に繋がり、その講義を聞いて感動した学生たちが、後年、藤田記念館建設準備委員会の中心メンバーになるのだが、それは後述することにする。

単身渡米のきっかけは「ゴミ箱の中の論文」

昭和22(1947)年8月24日、福岡と佐賀の県境にある脊振(せぶり)山頂測候所で、哲也は、その日発生した雷雲の気圧と風を測定した。そのデータを丹念に検証した結果、雷雲の下にそれまで知られていない下降気流があることを導き出し、これを論文にまとめた。

しかし、国内の学会からはまったく反応はなかった。その後、観測所に関係する哲也の研究助手の学生が、同じ脊振山頂にあったアメリカ空軍のレーダー基地のゴミ箱の紙屑の中から、たまたまある論文を見つける。論文のタイトルは『Nonfrontal Thunderstorm』。著者は雷雲研究の権威でシカゴ大学教授のホレイス・バイヤース博士だった。「これは哲也の研究テーマと関連がありそうだ」と思った研究助手の学生は、何かの参考になればと思い、哲也に渡す。ゴミ箱から偶然拾い出されたこの紙屑こそが、その後、藤田哲也とアメリカをつなぐ大きな懸け橋になるのである。

その論文を一読した後、哲也は自分の論文をバイヤーズ教授宛に郵送。と、すぐに返事が来た。手紙には「ドクター・フジタにぜひ渡米してほしい」と書かれていた。論文の水準から、執筆者の藤田哲也をてっきり博士と思い込んだものらしい。

だが、当時哲也は博士ではなく、肩書は明治専門学校助教授だ。博士論文を書くにも、調査・研究のために費用がかかる。そこへ、地元の北九州市に住む大谷賢という医師から、博士論文の研究費を提供したい、という申し入れがあった。高校・大学の両校長のはからいにつづいて、ここでも哲也は、地元の人々の厚意に支えられて、自分の目指す研究の道を歩むことができたのである。

こうして、哲也は博士論文『台風の解析的研究』を書き上げ、東京大学に提出。昭和28年8月1日、理学博士の称号が授与された。その1週間後の同月8日、哲也は、新妻と満1歳になったばかりの長男を残し、ポケットにわずかの金だけを持って、アメリカに向かう飛行機に飛び乗っていた。

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