世界に比類なき自動販売機を考案した発明家 俵谷高七
すっからかんになるも 一向に衰えない発明への情熱
興味深いのは、なぜ、煙草の自販機だったのか、ということだ。
下関市の市史編纂(へんさん)室によると、赤間関は九州との物流の拠点で、鹿児島から煙草の葉も大量に入っていた。煙草産業も盛んで、その風景を見ていた高七が、簡単に煙草を買える自販機を思いついたのではないか、と推測する。
だが、この発明で、高七の生活は一変した。作品は明治23(1890)年、東京・上野公園で開かれた第3回内国勧業博覧会に出品され、時の農相陸奥宗光からお褒めの言葉をもらう。この時の自動販売機は実用化されず、現物も失われたが、高七の発明熱にはなお一層の拍車がかかった。
次に考案したのが、新式郵便凾、つまりポストである。
高七が、最初の円筒形の鉄製郵便ポストを作ったことは意外に知られていないが、これは明治36(1903)年に大阪で開かれた勧業博覧会に展示され、投函から取り出しまでの実演を、両陛下の天覧に供する栄誉に浴している。
逓信省(ていしんしょう)(注1)から「円形ポスト110個」の注文を受けた高七は、喜々として上京し、生産に取りかかる。しかし、初めての東京で不案内なことも多く、納期に遅れて延滞金を払う羽目にもなったが、これで発明家としての地位を何とか確立することができた。
だが、好事魔(こうじま)多し、このポストが不運を招く。
その後、台湾総督府から電報で「ポスト100個」の注文が舞い込んだのである。高七はさっそく銀行から借金をして生産体制を整える。ところが何とこれが100個ではなく10個の間違いだったことが判明する。高七は頭を抱えた。
必死に総督府と掛け合い、かろうじて30個の注文を取り付けることはできたが、悪いことは続くもの、神戸港から船積みした商品の取り扱いが悪く、現地に到着した時にはほとんどが破損して、受け取りを拒否されてしまった。
大ピンチだ。何はともあれ、借金は返済しないといけない。それで家屋敷や家財を売り払い、貯金もはたいて、すっからかんになってしまう。やむなく東京・芝明舟町の小さな借家に移り住んだ。だが、発明熱はいっこうに衰えない。二畳の小部屋を仕事場に、以前にも増して発明に没頭する毎日である。
発明以外に天地なし、何物をか産せざれば休せざるべし
この頃、黒田操山なる人物が、俵谷高七を訪問した時の様子を文章に残している。以下はその一節である。
〈「誠に狭い見苦しい處で」と、二畳敷きの部屋は鋸屑満載、鑿(のみ)、槌、尺度、ボール紙、図案の散乱する間より起って、頑丈な小倉袴の塵を払い、眼鏡を脱し寒喧の辞を交へぬ。此の二畳の室こそ君が実に満腔の精神を打ち込める、宇宙間唯一の楽園と称すべきもの〉
さらに黒田は、この発明家の印象について〈朴訥謙譲(ぼくとつけんじょう)の人〉と書く。〈発明以外天地なし。趣味も品性も、才能も、総て是れ発明……何物をか産せざれば休せざるべし〉と、発明以外は頭にない人物と見るのである。
残っている写真を見ると、高七はすっとした優男(やさおとこ)に見える。だが、内面にはしぶとくモノづくりに食らいつく逞(たくま)しさ、精神力を秘めていた。そうでないとドン底の惨めさの中、ひたすら発明にのめり込むこともできなかった。
黒田はこう慨嘆するのである。〈発明家と窮苦は今古を通じて離るべからずと謂はしむれば謂 うべし〉
妻が助産婦をして生活を助け、息子の千代蔵が図面を書くなど一家ぐるみで高七を支える毎日が続いた。特許権を譲渡して収入を得るという思惑が外れ、その困窮の最中にあった明治37(1904)年、「自働郵便切手葉書売下機」を考案する。幸い今度は逓信省が350円で買上げてくれ、息つくことができた。現存する最古の自動販売機として、逓信総合博物館に展示されているこの装置は、切手と葉書の自販機構が左右に並び、下部はポストという三つの機能を持つ独創的なものだ。
切手を買う場合は、三銭を入れると三銭切手が出てくる。一銭五厘を入れると葉書が1枚出てくるもので、2枚欲しい時は三銭入れたらよく、1枚しかない時は一銭五厘が返却される。このメカニズムも基本的には最初の自動販売機と変わらないが、ある時、博物館が専門メーカーに頼んで、このレプリカを作ろうと試みたことがあった。
「しかし、仮にレプリカを作っても、実際に作動するかどうかわからないので止めたほうがいいとなり、断念しました」と井上卓郎・資料専門員は話す。それほど高七の自動販売機には、彼個人の指のワザや感覚が込められているということで、とても真似のできるものではなかったと言うのである。
「発明はするな」という遺言に込められた万感の思い
俵谷高七の手になる自動販売機の発明には、他にも「俵谷式自転機」「乗車券自動販売機」がある。「自転機」は、円形容器をガラガラと自動回転させて、辻占(つじうら)(注2)や籤(くじ)をポトリと落とす抽選機で、現在も使われているものだ。
大正元(1912)9月、高七は57歳で没するが、結局、彼の考案した苦心と努力の結晶は、実際に使われることが少なかった。
かつて都新聞(現東京新聞)の取材を受けた時、高七は「兵隊さんが国家に御盡(ごじん)しなさいますのも、私が肝膽(かんたん)を砕いて発明に取掛かりますのも心は一だと思ふて一向にかまいませんが、家人に迷惑をかけるのが如何にもたまりません」と答えている。
「すべてを犠牲にしてとことん新しさを追求する。そこには一切の妥協がない」と言うのは、日本自動販売機工業会の佐渡勝利・専務理事である。
遺言は「発明はするな」だった。高七の孫にあたる俵屋和夫さんは、祖父についてこう記している。
「一生を発明にかけて財を失えば、発明狂と世間の物笑いの種となりましょう。祖父の場合も発明狂に属するとは思いますが……」
だが、その「狂」が独創を生み、自動販売機大国のわが国の黎明期を引っ張るバネになったことは確かだった。
(注1)逓信省(ていしんしょう。過去に存在した日本の中央省庁のこと)
(注2)辻占(つじうら。日本でおこなわれた占いの一種)
取材協力・資料提供:日本自動販売機工業会
[2008年6月2日 公開]
[FUJITSU飛翔 No.50(2003年11月刊)より転載]
著者プロフィール
- 滝本 喬(たきもとたかし)
- 1946年生まれ。ライター。著書に『男たちの転機』『授業を変えれば大学は変わる』『柱の太さで家を決めるな!』(いずれも共著、プレジデント社)、『史上最強の家』(ダイヤモンド社)などがある。
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